どうも、広く浅いオタクの午巳あくたです。
今回はあのチェーンソーマンの作者としてお馴染みの藤本タツキさんによる短編漫画であり、それをアニメ化した短編映画の「ルックバック」について語りたいと思います。
わずか1時間足らずの短編映画でありながら、劇場公開当初は大きな話題を呼んだ本作のあらすじやみどころ、そして意味が分からなかった人向けの解説をしていきますので、ぜひ最後までお付き合いください。
あらすじ
小学4年生の藤野は学級新聞で4コマ漫画を連載していた。
彼女の描く漫画はクラス内でも人気で、たくさんの人々から褒められ、藤野自身も自分の漫画に自信を持っていた。
そんななか、クラスの担任から学級新聞の漫画の枠をひとつ他の生徒に譲ってほしいと頼まれる。
その生徒とは、藤野とは別のクラスに属する京本という女子生徒なのだが、不登校で学校に来れていないそう。
学校に来れもしないくせに、漫画なんて書けるのかと京本を見下す藤野。
ところがいざ学級新聞で二人の作品が並ぶと、藤野の絵は京本と比べると明らかに見劣りしていたのだった。
その悔しさをバネに本格的に絵の勉強をし始める藤野。
しかし、勉強も友達付き合いもそっちのけで漫画にのめりこむ藤野に対し、次第に周囲の反応が変わっていき…
感想
今年一番の後悔は、この「ルックバック」という作品を映画館で観なかったことでしょう。
いや公開された当初から気にはなってたんです。でも上映時間が一時間弱っていうじゃないですか。
「それに小説のハードカバー1冊分の値段払うのもなあ」
と貧乏性を発揮して、サブスクで出るまで我慢することにしたのです。
そして思いのほか早くアマプラで公開されて、とてもとてもありがたかったのですが、実際に観てみたら…
「くそ!!!!なんで俺は…あんなセコい考えで劇場に足を踏み入れなかったんだああ!」
となった次第です。
まず映像。まさに日本が世界に誇る漫画というコンテンツに最大限に敬意を払った作画にただただ感動しました。
良い意味で作りこみすぎず、原作の絵をそのまま動かしているような印象がなんとも味わい深く、その荒さがキャラクターたちの感情の動きと見事にマッチしていたのです。
どこか懐かしさを感じる手描き感まんさいの絵面ながら、その動きやカメラワークは現代のアニメーション技術を感じさせ、動画ならではの表現もナチュラルに織り交ぜていました。
まさにお手本のような「漫画原作の映画」と言えるでしょう。すべての二次元コンテンツの映像化作品は、こうあってほしいものです。
そして肝心のストーリーについてですが、最初は素直に感動しましたが、あとから考えれば考えるほどいろいろな要素が見えてきて、気が付けば机に座り込んで「ルックバック」について延々と考察している自分がいました。
一口目からガツンと味蕾を刺激しながらも、そこから噛んで嚙んで、骨までしゃぶってもまだ味が出てくるという、贅沢すぎる一品ですね。
意味わからん人向けの解説
※この章では重大なネタバレを含みますので、未視聴の方は飛ばしてください
視聴済みなので続きを読む
本作「ルックバック」は説明的な部分が少なく、全体をとおして抽象的な印象を受ける物語です。映画を観た、あるいは原作を読んだけど意味が分からなかったという人もいるかもしれません。
そこで僕なりの解釈を踏まえた解説をしていきたいと思います。
まずこの作品のタイトルである「ルックバック」、ラストで明かされますが「背中を見て」という意味です。
まずこの映画の序盤から順を追って、そのタイトルの真意を紐解いていきましょう。
藤野は自分の描く漫画に絶対の自信を持っていましたが、京本の絵を見て未熟さを実感しました。
そして絵について本格的に学ぶことにしたのです。この時点で、藤野が京本の背中を追っていたという見方ができます。
しかし6年生になるころ、彼女は唐突に漫画を描くのを辞めます。
作中の時間においておよそ2年間、必死に努力したのに、いまだに京本の技量に追いついてないことを自覚し、絶望してやめた…ように見えますが、おそらく違います。
ここは藤本先生がそう見えるようにミスリードを誘ったと僕は睨んでいるのです。
重要なのは京本の絵を見たシーンではなく、その前のシーン。
学校の休み時間に、周囲は外で遊んでいるなか、藤野だけが机に座って黙々と漫画を描いていたあの一幕のことです。
そのとき、彼女のクラスメートが藤野に対して
そろそろ絵を描くの卒業した方がいいよ?
と言うのです。続くシーンでも姉から似たようなことを言われ、彼女の両親も心配しているとことを仄めかされます。
さらに学級新聞が配られたシーンでは、クラスメートたちがあまり藤野の漫画に興味を抱いていないのがよく見るとわかります。
このとき藤野が新聞に描かれた漫画を読んでいるカットでは、なぜか無音になっていました。冒頭ではクラスメートたちの漫画を楽しんでいる声が聞こえたのに、いまは誰も彼女の漫画に対して声をあげていないということを示唆しているのでしょう。
つまり藤野が漫画を辞めた理由は、誰も彼女の漫画を読まなくなったからなのです。
なぜそういう解釈になるのかについてはラストで語りますので、とりあえずその前提で話を進めます。
そうなってくると、藤野と京本が初めて対面するシーンの見え方も変わってきます。
京本に自分の漫画を褒められ、ふたたび漫画を描きはじめる藤野ですが、最初は自分が目標としていた京本に認められたからモチベーションが湧いたのだと思いました。
しかしそうではなく、京本が自分のファンだったことがわかったからでした。
ただ学級新聞に掲載されているだけの彼女を「藤野先生!」と京本は大まじめに呼びました。そして自分の生活の支えだったことを語り、サインまで求めたのです。
ここが藤野の創作活動における原点。自分の描いた漫画が、誰かの人生を彩っていたという事実が、彼女のモチベーションの源泉となったのです。
そしてここ以降で、ルックバックの構図が反転していきました。
コンビで漫画を描いていくことになり、藤野は常に彼女の前を歩き、引っ張っていました。
また二人が漫画を描いているカットも、藤野は自分の勉強机で、京本はその後ろの卓袱台でペンを走らせていて、それが定位置になっていたようです。
京本視点では常に藤野の背中が見えていたわけですね。
物語序盤の、京本の技術に憧れその背中を追いかけていた藤野という構図から、自分の作品を積極的に世に広めていこうとし外の世界に物怖じずに関わっていこうとする藤野の背中を、京本が追いかけているという構図に変化したのでした。
しかしこの変化が、別離をもたらしたのです。
藤野は京本と出会いより創作にのめりこみ、部屋に籠る時間が増えました。
いっぽう京本は、逆に外に出る機会が増えたのです。
お互いがお互いにとって運命の出会いではあったのでしょうが、その出会いによって得たものはまるで違うのです。
お互いの変化は真逆で、そしてそれに伴う憧憬も正反対でした。
だから連載が決まり漫画家としての成功を目指す藤野と、外の世界に出て絵の勉強をすることを決意という形で、二人は袂を分かったのです。
そして時は流れて、人気漫画家となった藤野。そして美大で起きた無差別殺人という悲劇によって、命を奪われた京本。
ここで二人が出会うきっかけとなった昔の4コマ漫画を見つけ、「京本が死んだのは自分のせいだ」という発想にとらわれ、ifストーリーが始まるのですが、この辺については次の章で語るのでとりあえず割愛。
藤野は京本の部屋に入りました。そしてそこには、自分の描いた漫画の単行本や、週刊誌のアンケートの書きかけなどがあったのです。
いまなお、京本は藤野のファンであり続けていたことを知ったのです。
そしてこんなセリフが流れました。
「だいたい漫画ってさあ、私、描くのは全く好きじゃないんだよね」
「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」
そして回想になります。映画では二人で漫画を描いていたカットや、日常のささやかな場面などのカットが入り混じっていましたが、原作では少し趣が違いました。
原作では京本が藤野の原稿を読んでいるカットだけが、回想されていたのです。藤野の漫画を読んで笑ったり泣いたりしているところを、思い出していたのですね。
そして京本の部屋のドアにかけてあるちゃんちゃんこが目に入ります。自分の初めてのファンに向けて、自分が初めて書いたサインの入った「背中が見えた」のです。
そして藤野はふたたびペンをとります。少女時代の藤野は京本の背中を追い、やがて自分が京本に背中を見せるようになり、そして最後にまた京本の背中を見て走り出したのです。
劇中でも原作でも、なぜ藤野が漫画を描くのかについてはっきりと言及されませんでしたが、きちんと語っていたのです。
自分の作品を必要としてくれる人がいるから、だと。
ここに気づいた瞬間、藤野にとって京本がどういう存在だったのかが理解できました。一緒に歩む相棒である以上に、自分の初めてのファンだったということなのです。
「ルックバック」という作品は、藤野と京本が相棒として共に歩むバディであるという構図だと抽象化してしまいます。
藤野という漫画家と、彼女の初めてのファンであり、生涯ファンであり続けた京本という構図で観ると途端に輪郭がはっきりするのです。
考察:クリエイターの影を描いたもうひとつのテーマ
※この章では重大なネタバレを含みますので、未視聴の方は飛ばしてください
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ここからは「ルックバック」にまつわる僕なりの考察です。あくまでもそういう解釈もあるんだなあという感じでお読みいただければと思います。
先ほどの解説の章で述べたのは、言うなればこの物語における「光」です。
僕はそれと併せて影の部分、「クリエイターの業」とでも呼ぶべきテーマを、本作から見出しました。
それは例のifストーリーの件。もしも藤野と京本が出会っていなければどうなっていたかを描いた部分にありました。
このシーンやや唐突に感じませんでした?
藤野の再起のきっかけという意味においては、京本の部屋の様子を描けば十分なはずです。
なぜあのifストーリーがあり、なおかつそもそもアレはなんだったのかについて考察していきます。
ズバリ言うなら、あのifストーリーは藤野の創造の産物であると思います。
もしも京本が自分と出会っていなければ…という発想をもとに、意図せず藤野が頭の中で描いた物語なのです。
そう思うきっかけは、ifストーリーが終わった後に、京本の部屋のドアから滑り込んできた4コマ漫画、「背中を見て」を藤野が手に取ったシーンです。
そこになぜか京本の作品として、先ほどのifストーリーの結末が描かれていました。
この時点では京本が藤野を想って書いた4コマ漫画であると思えます。
しかし冷静に考えると、ifストーリーと京本の視点が絶妙にかみ合っていません。
まず京本がそれを書いたのなら、例の事件が起こる前であるはずで、当然ながら急に知らない男がやってきて自分に襲い掛かってくるなんて知りようがないはず。
たまたま未来を暗示していただけなのかもしれませんが、そうであるなら4コマとリンクしたifストーリーを描く意味などありません。
あのシーンは描き方からして、まるでifの世界からの藤野への贈り物のように見え、多少ファンタジー要素が含まれているように感じるでしょう。
しかし、ラストで作者の真意を示唆するシーンがあります。
藤野が仕事部屋の窓に、例の4コマの原稿を貼り付けたところ↓
あきらかに何も描かれていません。つまり藤野の見た4コマは、実際には存在しないのです。
よって、あのifストーリーは藤野のクリエイティブの本能が生み出した産物であるという結論に至りました。
あの4コマ漫画も、藤野の頭の中で描き出されたifの世界と地続きのモノだったのです。
もしそうだとするなら、それは業と呼ぶにふさわしい、ある種の歪みです。
自分にとって最も特別な存在を喪ったという事実を受けても、彼女の頭はそれを糧に物語を生み出しました。
藤野のクリエイティブは、京本の死をただ嘆くこと、ただ悼むことを許さなかったのです。
そして彼女は京本の死によって生み出された創造の源泉を、自室の窓に貼りました。それを自分の作品に落とし込むために。
エンドロールでは、作業机に向かう藤野の背中が延々と映されていました。
夜があけて、外は明るくなっているのに、彼女の周囲だけは以前として暗いままだったことに気づきましたか?
あのシーンは、京本の背中を見て自分のオリジンを思い出し、再び創作に向かう光の意志と、友の死さへも創造の糧にする、糧にしてしまうクリエイターの業の暗さを象徴していたのかもしれません。
まとめ:こんな人におすすめ
「ルックバック」はこんな人におすすめです。
- なにかしらの創作活動に携わっている。あるいはいた。
- チェーンソーマンのファン
- 噛めば噛むほど味がするようなお話が好き
漫画でも絵でも小説でも、何かしらの創作活動をしていた経験がある方には特に刺さる部分があるんじゃないかと思います。
個人的には映画と原作、両方嗜むことをお勧めします。