「キャッチー・イン・ザ・ライ(村上春樹訳)」のあらすじ・感想。禁書理由や文学的テーマを徹底解説

「キャッチー・イン・ザ・ライ(村上春樹訳)」のあらすじ・感想。禁書理由や文学的テーマを徹底解説 小説

どうも、広く浅いオタクの午巳 あくたです。

今回はJ.D.サリンジャー著、村上春樹訳の「キャッチー・イン・ザ・ライ」について語りたいと思います。

アメリカ文学史における不朽の名作である本書の、あらすじや感想、その他の解説をご紹介いたしますのでぜひ最後までお付き合いください。

あらすじ

17歳のホールデン・スコフィールドは成績不良でペンシー校を退学することになった。

しかし特に気に病むことのないホールデンは、寮に戻って隣人のアックリーやルームメイトのストラドレイダーと軽口を叩き合った。

ところがストラドレイダーと、共通の知人であるジェーン・ギャラハーのことで口論となり、殴り合いの喧嘩に発展してしまう。

気が滅入ってしまったホールデンは、追い出される前に自分から寮を出ていき、実家にも戻らずニューヨークのホテルに泊まり、バーやナイトクラブに行ってみたり、知り合いの女の子とデートをしたり、娼婦を買ってみたりと、自由気ままに都会を放浪するのだが…

感想:村上春樹の主人公像のルーツ

まんま村上春樹製の主人公じゃないか!?

本作「キャッチー・イン・ザ・ライ」の主人公であるホールデンに出会ったとき、まず思ったのがこれです。

物語は彼の第一人称で終始語られるのですが、その実像にとても既視感を抱いたのです。

村上春樹翻訳の小説は本作以外でも多数存在し、僕も何冊も嗜んでいるのですが、当然のことながらあくまでも翻訳であるため、村上春樹作品におけるイズムは控えめな印象でした。

しかしこのキャッチー・イン・ザ・ライという小説においては、その村上イズムが全開。もし翻訳版であることを知らず、かつこの小説がJ.Dサリンジャーという作家が50年以上前に出版したものだと知らなければ、僕はこの小説を村上春樹さんのオリジナル作品と思ったことでしょう。

とにかく、このホールデンというキャラクターはメイド・イン・ハルキムラカミ感がすさまじいんですよね。

僕が特に似ていると感じたのは、ノルウェイの森の主人公であるワタナベです。

表面的なパーソナリティにおいてはワタナベとホールデンは全然違うのですが、いわゆる「俗物」に対する生理的な嫌悪の様相が酷似していると思いました。

1950年代は、二次世界大戦の戦勝国であり、経済状況という観点でみれば一人勝ちのような状態だったため、現代まで続く「世界最高の経済大国アメリカ」が誕生した時代でした。

そんな資本主義社会の最盛期における大人の世界に、どうしようもない俗と欺瞞を感じてしまうホールデン。

高度経済成長期を迎え、後にバブルにまで発展する好景気の煽りをうけた1960年代の日本に生き、やはり俗と欺瞞を感じるワタナベ。

両者は国も時代も違えど、どこか似通った世俗に身を置きながらも、それを受け入れがたく感じる若者なのです。

よって僕はこのホールデンはワタナベとよく似た主人公だと感じましたが、冷静に考えたら逆ですね。

キャッチー・イン・ザ・ライが世に出てきたのが1951年で、村上春樹さんがデビューしたのが1979年であるため、似ているのワタナベの方でした。

もとももと村上春樹さんはアメリカ文学の愛好者であり、あの独特な文体や語りの雰囲気も、スコット・フィッツジェラルドやJ.Dサリンジャーの影響を強く感じる節があります。

明言されているわけではありませんが、おそらくこのキャッチー・イン・ザ・ライのホールデンは、村上さんのキャラクター造形の感性における礎になっているんじゃないかと、個人的には思いました。

村上春樹ファンであるなら、ただ翻訳しているという理由だけでなく、彼のルーツに触れるという意味でも一読の価値はあります。

禁書理由:あらゆる学校から排除された怖い理由とは

アメリカ文学の代表作の一つと言っても過言でない「キャッチー・イン・ザ・ライ」という小説ですが、実は発売当初にカリフォルニアの教育委員会が危険であるとし、あらゆる学校の図書室から本書が排除されるという騒動に至りました。

そして現在においても、本書を若者に読ませるべきかどうか議論があります。名作であると同時に、問題作でもあるのですね。

キャッチー・イン・ザ・ライという小説の何が問題なのか?

まず第一にホールデンの素行面があげられます。あらすじの章でも少し触れましたが、彼はバーやナイトクラブに出入りし、娼婦を買い、タバコも愛飲しているのです。

ところが、つい忘れがちですが彼は17歳なんです。

日本でも未成年がタバコを吸ったり酒を飲んだりする作品が問題視され、現在ではほとんどそういう描写はありませんよね。つまりそういうことです。

もう一つがホールデンの口調です。日本語訳だとそこまで気になりませんが、原文では「Fuck」などのFword(不適切言語)を多用し、さらにキリスト教への冒涜的な発言もみられるため、そこも問題になったようです。

しかしこの部分は、当時のティーンエージャーたちの口調を徹底的にリアルに描いた結果であり、問題視されていると同時に、当時の若者たちの口語文化を知る上での資料ともなりえる文学的な価値も見出されています。

ところで、ただ単に不良の若者を描いているだけなら、「禁書はやりすぎなんじゃ…」って思いませんか?

当時はまだしも今現在においては、若者が犯罪行為にはしる作品なんて履いて捨てるほどあるのに、なぜ本書だけがここまで問題視されているんでしょう?

まあ僕はアメリカの教育文化に詳しいわけではないので、向こうじゃそんなもんだよと言われれば納得するしかないんですけど。

でもあえてもう一つ、本書が禁書になった理由を考察するなら「あまりにリアルすぎたから」ではないかと思います。

というのも僕がキャッチー・イン・ザ・ライを初めて読んだのは20歳を超えてからなのですが、ホールデンが思春期時代の自分の姿を投影しているかのように感じたのです。

日本に生まれ日本で育ったゆとり世代の僕ですら共感したのですから、発売当初のアメリカのティーンエージャーたちの共感はその比ではないでしょう。

本作は思春期の少年の鬱屈とした自意識や利己的な思想、それに伴う反社会的な行動原理をあまりにリアルに描きすぎたため、「このままじゃアメリカ中の少年がホールデンになりかねない!」と焦った大人たちによって禁書になったのではないかと思います。

つまるところキャッチー・イン・ザ・ライは影響力が強すぎるということ。小説というコンテンツにおいて、禁書になるというのはある意味では最大級の賛辞なのかもしれません。

余談ではありますが、本書は世界的に有名な異常犯罪者が好んで読んでいたことでも有名。

ジョン・レノンをストーカーした挙句に殺してしまったマーク・チャップマン、同じく女優レベッカ・シェイファーのストーカー殺人犯の愛読書だったようです。

そしてロナルド・レーガン大統領の暗殺未遂犯であるジョン・ヒンクリーも同様。ヒンクリーは元々「タクシードライバー」という映画に出演していたジョディ・フォスターのストーカーであり、大統領の暗殺もその映画の影響と言われています。

このように世界的に有名なヤバいストーカーに愛されがちなところも、本書が危険視されている要因のひとつなんでしょう。

もっとも、そもそもがアメリカ文学を代表するような作品なので、自宅の本棚に置ているアメリカ人は数多くいることでしょう。

だから複数の有名な殺人犯の本棚にあったところで、「たまたまじゃない?」って思わなくもないんですけどね。

文学的テーマの解説

本書における文学的テーマは「ティーンエジャー」であると思います。日本でも浸透しているこのワードは13~19歳くらいまでの思春期の少年少女のことを指します。

そもそもティーンエージャーという言葉が世間に浸透し始めたのが、1940年代後半。つまりキャッチー・イン・ザ・ライ発刊の少し前くらいからなのです。

それまでの世間は大人と子供という概念しかなく、「ティーン」という大人と子供の中間地点の人間という概念は曖昧だったということ。

いまでこそ日本でも海外でも思春期の少年少女を中心に描いた物語は星の数ほどありますが、「ティーン」という概念すら曖昧だった時代からすれば、いかにキャッチー・イン・ザ・ライという作品が斬新だったかは想像がつきます。

本書は具体的なメッセージを主張をするというよりは、まだ新しい概念だった「ティーンエイジャー」の普遍的な心象風景を抽出し、現代にも通ずるつまびらかな少年像を創りあげることを目指した作品なのです。

時代が変わっても、国が変わっても、変わることのないナニかを見出すこと、それが文学における価値なのだと個人的に思っているので、そういう意味ではキャッチー・イン・ザ・ライはまぎれもなく傑作でしょう。

※ここからは若干のネタバレを含みます。未読の方が見ても問題ないガイドとしての解説を心がけますが、ゼロの状態から読みたい方は飛ばしてください

問題ないのでクリックして続きを読む

さて、本書は具体的なメッセージを主張しているわけではないと述べましたが、いっぽうで著者であるJ.Dサリンジャーの思想が色濃く表れている作品でもあると思います。

それに伴うキャッチー・イン・ザ・ライに内在するもうひとつのテーマは、「資本主義の否定」です。

まず本書の主人公であるホールデンは、著者の分身であるとされています。彼は冒頭で学校を退学になりますが、J.Dサリンジャー自身も高校を退学した経歴を持ち、似通った人生を歩んでいることからそう言われているのでしょう。

ホールデン=J.Dサリンジャーと考えると、当時のアメリカ社会を著者がどう捉えていたのかが詳細にわかります。

まずホールデンはプロローグで兄のDBについて触れています。

小説家であるDBは、現在ではハリウッドに住んで映画関係の仕事をしているようでした。その件について、ホールデンはかなり否定的な意見をもっているのです。

小説家としての兄は敬愛していたようですが、彼がハリウッドに行くことを「身売り」と表現し、そこから映画というコンテンツへの嫌悪が何度も描写されます。

アメリカにおける映画ビジネス、その代名詞であるハリウッドはまさにアメリカ経済の象徴的な要素のひとつであり、ホールデンがそれに対して見せる嫌悪にJ.Dサリンジャーの思想が反映されているように思えました

またホールデンはあらゆる物事を否定し、かつバカにしていました。目に映るもの全てを見下すのは思春期をこじらせた少年像としてはありがちな部分ですが、彼が見下していた要素のほとんどが資本主義の産物であったという点に注目してみました。

例えば、学校の同級生たち。ホールデンが通っていたペンシー校は私立のお金持ちご用達の学校であり、ホールデン自身はもちろん、作中に登場する隣人のアックリーやルームメイトのストラドレイダーも富裕層の家の子なのです。

そんな彼らは学業そっちのけで、車や酒やセックスに夢中で、親の金で遊び惚けており、まさに資本主義社会を象徴するティーンエージャーでした。

また寮を出てから、彼はニューヨークのホテルに泊まり、バーやナイトクラブを巡ったり、ガールフレンドと演劇を見たりしています。そこで出会う人すべて、客からバーテン、ステージに立つパフォーマーまで、ホールデンはバカにするのです。

アメリカ経済の中心であるニューヨークの街なんて、まさに資本主義の塊のような場所でしょう。日本で言うならバブル時代の歌舞伎町みたいなもんですから。

そんな世界に生き、謳歌している人々すべてが、ホールデンからすれば「インチキ」なのでした。

ホールデンのこのアメリカ資本主義社会への否定的な視線が、J.Dサリンジャーの思想の現れだとするなら、その背景に戦争があると考察できます。

J.Dサリンジャーは小説家になる前、太平洋戦争において従軍していた経験を持つのです。

その際、彼が参加した戦地はバルジの戦い、その後に続くヒュルトゲンの森の戦いでした。この連戦により、J.Dサリンジャーが所属した第12歩兵連隊は3080人の兵士のうち2517人が戦死したとされています。

なんと構成員の80%以上が死んだのです。想像もつかないほどの地獄の戦場だったことを、数字が物語っています。

そして現在に至るアメリカ経済と第二次世界大戦は切っても切れない深い関連を持ちます。

第二次世界大戦に勝利し、なおかつ自国が戦火に晒されなかった事実が、アメリカを豊かにした重要なファクターなのですから。

地獄のような戦争を経て、その果てに生まれた「世界一の経済大国アメリカ」を見たJ.Dサリンジャーが何を感じ、何を憂いたのかが、本書で描かれているのかもしれませんね。

さて、それではキャッチー・イン・ザ・ライのストーリーに戻ります。

目に映るもの全てを否定するホールデンが、全面的に肯定する存在が、妹のフィービーと死んだ弟であるアリーです。二人とも名実ともに「子ども」と言える年齢です。

ホールデンは子どものような純粋無垢な存在に対して、ある種の崇拝めいた価値観を持っていました。

そして本書のタイトルであるキャッチー・イン・ザ・ライは、物語でホールデンが歩道ですれちがった小さな男の子が口ずさんでいる歌に由来します。

ライ麦畑で捕まえる誰かさんを、誰かさんがつかまえたら♪

こんな歌です。これはスコットランドの民謡に歌詞を載せた「故郷の空」という唱歌の一節であるとされています。

この歌が不思議と印象に残ったホールデンは、のちにこのように発言するのです。

だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。

何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。

で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。

そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

子どもという存在は、先進国においては社会から隔絶されています。つまりホールデンからすれば、ひいてはJ.Dサリンジャーからすれば、腐ったアメリカ資本主義社会に汚染されていない存在であるということ。

ライ麦畑はそんな汚染が及ばない子どもたちの世界の象徴であり、純粋無垢な存在が集う聖域なのです。

そしてその世界の崖っぷちに立っているのが、ホールデンのようなティーンエージャー。あと一歩進めば、否が応でも大人の社会に放り込まれる10代後半の少年少女は、彼からすれば崖っぷちに立っているのと同義なのでしょう。

美しいライ麦畑に生きる純粋無垢な子どもたちが、崖から落ちてしまうこと、つまりは社会に放り込まれてしまうことをホールデンはひたすら嘆いているのです。

だから彼らをキャッチしたいと願うのです。

いたって独善的で、傲慢で、非現実的な願いと言えます。しかしそれは、純粋無垢な存在を社会から守りたいという、ホールデンなりの、そしてJ.Dサリンジャーなりの美徳なのかもしれませんね。

まとめ:こんな人におすすめ

本書はこんな人におすすめです。

  • 村上春樹のファン
  • アメリカ文学に関心がある
  • 思春期時代の自分の拗らせっぷりを思い返すと死にたくなる

なかなか難しい内容ではあると思いますが、先ほども述べたように村上春樹さんの小説が好きな方にはハマりやすいと思います。

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