どうも広く浅いオタクの午巳あくたです。
今回は川端康成の「雪国」について語りたいと思います。
ノーベル文学賞を受賞したまさに日本が世界に誇る名作のあらすじや感想、そして読んだけど意味が分からなかった人向けの解説をご紹介いたしますので、ぜひ最後までお付き合いください。
作品概要:作中の「雪国」とはどこのこと?
本書における雪国は、具体的な地名が作中で記されているわけではないのですが、新潟県にある湯沢温泉とされています。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった
日本文学史上もっとも有名な書き出しであるこの一文にある「トンネル」が、上越国境の清水トンネルです。
この「雪国」という小説は、著者である川端康成が旅をしていた時の経験を背景にしているとのことで、作中のヒロインである駒子も実際に川端康成が出会った芸者をモデルにしているそうです。
そして1968年、日本人初となるノーベル文学賞受賞という快挙を遂げた小説でもあり、名実ともに川端康成の代表作と言えます。
あらすじ
雪国に向かう汽車のなか、島村は席の向かいに座る一組の男女に関心を示した。
男は見るからに病弱で、女性は若く美しくはあったが、かいがいしく男に寄り添う姿が母のような雰囲気を醸していた。
島村は彼女の、葉子の目をとくべつ美しく思い、窓の鏡に映る葉子を眺めながら道中を過ごしたのだった。
目的地に到着した島村は、ある女性と再会する。そもそも島村の旅の目的が彼女だった。
数年前に、この雪国を訪れた島村は、そこで働く駒子という女と出会い、一夜だけの男女の関係を持ったのである。
そして再び同じ地で出会った駒子は、変わらず美しいままだったが、昔と違っていまは芸者として働いているという。
そして汽車で出会った病弱の男と、傍らにいた葉子という女性と、駒子は浅からぬ縁があるようだが…
感想:文体の絶技
『文学とはなにか?』という問いに対する、ひとつのアンサーがこの小説です。
述べるのではなく、語る
説明するのではなく、感じさせる
文字という無機質な記号だけで、視覚的あるいは心象的な絶景を描く
雪国は小説でなければできない表現を魅せるための作品であると、個人的には思っています。ゆえにアンサーであるというわけです。
触発されすぎてやけに気取った導入になりましたが、平たく言えばとにかく文体が美しいということ。
論より証拠ということで、本書のなかにある情景描写を抜き出してみましょうか↓
雲が出て、陰になる山やまだ日光を受けている山が重なり合い、その陰ひなたが刻々に変わっていくのは、薄寒い眺めであったが、やがてスキー場にふうっと陰ってきた。
窓の下に目を落とすと、枯れた菊の籬には寒天のような霜柱が立っていた。しかし、屋根の雪の解ける樋の音は絶え間なかった。
その夜は雪ではなく、霰の後は雨になった
紙面から雪国の寒気が流れ込んでくるようで、ゾクッとします。美しくもどこかもの悲しい風景であることが伝わり、そして続く展開に不穏な影を落としこんでいますね。
このように読み手に色々なニュアンスを実感させながらも、文章自体はただ視界に映るものを描写しているだけなのがポイント。
これが、述べるのではなく語る、説明するのではなく感じさせるということ。
そして川端康成は風景だけでなく、人物描写も名人芸です。島村の視点で駒子の容姿を描写した文をご覧ください↓
細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ脣はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。
いかがでしょう?「女性の脣が美しい」という印象を、ここまで詳細に語れますか?
なにがすごいって、これだけ長い文章なのに最後まで「。(句点)」が無いんですよ。
読んでる側からすればなんでもないことみたいに見えますが、実際にこういう長い文章を書いてみればわかります。思いのほか、何が言いたいのかわからない感じになるんですよ。
にも関わらずスッと島村が駒子の脣を気に入っているのが伝わるというのは、文豪の成せる業なのです。
作中では風景や心境などを詳細に描写する箇所が多いのですが、読み手にいっさいの負担をかけず、五感的な情報に加え、その場の空気や感情、次の展開を匂わせる伏線的な描写など、さまざまなニュアンスを伝える、まさに絶技とも言える文章で魅せてくれるのです。
↑試しに真似してみたんですが、やっぱり難しいですね。いつもなら即書き直すくらいに粗末な文ですが、今回はあえて残しておきます。
読んだけど意味が分からない人向けの解説
雪国はかなり解釈の余白が大きい難解な作品です。読んでも意味が分からなかった方も少なくないでしょう。
そこで僕なりの解釈を交えた解説をしていきますので、ぜひ参考にしていただければと思います。
前章でも述べましたが、本書は川端康成の旅の経験を背景としています。だから主人公の島村は川端康成の分身のように思えますが、実は違うそうです。
川端康成は「雪国」という小説に関してこのように述べています。
島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子をうつす鏡のようなもの、でしょうか
はっきりと「自分ではない」明言しています。むろん物語の視点となる人物ですから、いくぶん著者の思想やパーソナリティが反映されている節はあるかもしれないですけど。
ただこの発言で重要なのは、島村は駒子を映す鏡のようなものと述べている点。
つまり島村は真の主人公ではないのです。雪国を読んでいるとつい島村の話だと思ってしまいますが、彼はあくまでも物語の語り手としての機能でしかなく、シャーロックホームズにおけるワトスンのような存在なのです。
では真の主人公は誰なのかというと、やはり駒子ということになるでしょう。
つまりこの小説は島村を中心に据えて追うよりも、駒子という女性を中心に据えて追ったほうが理解しやすいのです。
それを踏まえて、解説していきましょう。
※ここからは重大なネタバレを含みます。未読の方は飛ばしてください
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まず冒頭は島村が乗車している汽車の中での出来事です。
ここで葉子という女性に彼は興味を惹かれるのです。甲斐甲斐しく病気の男に寄り添う姿は、なるほど好感をいだいてしまいそうな感じがしますね。
ですがこのシーンで重要なのは、鏡に映った葉子の目が夕焼けに染まり、まるで燃えているように見えたこと。ここが、ラストへ向けての重要な伏線となります。
このとき、葉子は隣に座る病気の男性、行男の方を向いています。つまりこのシーンは彼女の行男に対する恋慕を象徴しているのではないかと思います。
そして島村が汽車を降りると、待合室に青いフードを被った女性が窓から線路を眺めているのが見えます。そして後に、その女性が駒子であったことを島村は知るのです。
ここから駒子を中心に考えていきましょう。そもそも駒子は何しに駅に行ったのか?
島村を迎えるためというのは考えずらいですね。島村が事前に行くと連絡したとは思えませんし、仮に連絡してたとしても、それなら島村が汽車から降りたときに出迎えているはずです。
だから順当に、行男を迎えにきたと考えるのが妥当でしょう
しかし彼女は待合室から出てきませんでした。ただ外を眺めていたのです。
ここもまた想像ですが、駒子は葉子に寄り添いながら出てくる行男を見て、動揺していたのではないかと思います。
葉子が一緒なのを知らなかったのか?あるいは知ってはいたけど、長年連れ添った夫婦のような二人様相に、立ち入れないなにかを感じたのか?
どちらかは不明ですが、凍てつく寒さのなかで待っていたのに、迎えに出なかったところに、彼女の複雑な心境が見てとれます。
そして島村と再会した駒子は、彼を自分の家でもてなしました。
このとき島村が汽車の中で会った葉子のことを話し、駒子は彼の葉子に対する関心を女の感で見抜きました。
のちに行男は駒子の許嫁であると聞いた島村は、彼女に本当にそうなのか聞きますが
いいなずけは嘘よ。そう思ってる人が多いらしいわ
と駒子は答えます。
しかし彼女は芸者で稼いだお金を行男の治療費にあてていたというじゃありませんか。
駒子自身は行男のために芸者になったわけじゃないと言いますが、だとしても決して少なくないだろう金を送り続け、尽くしてきたのにも関わらず、汽車から降りてきた行男が葉子と身を寄せ合っている姿を目にしたとき、彼女の心境がどのようなものだったのかは想像に難くありません。
許嫁がどれだけきちんとした約束だったのかは定かではありませんが、駒子が行男に対してただの幼馴染以上の感情を抱いていたことは間違いないでしょう。
そして行男は夜に危篤状態となります。帰る島村を見送りに行っていた駒子は、それを知らせにきた葉子に対して
このように言います。
いや、私帰らないわよ
字面だけ見れば冷たいものですが、こう言い放つ駒子の心境がどれだけ複雑な熱を持っているかはおわかりいただけるでしょう。
あえて言い表してみるなら「愛憎渦巻く」ってところですかね。
そして数年後、ふたたび島村と会った駒子は彼に執着めいた素振りを見せます。
島村はそれを自分に惚れているからと受け取っていて、それも間違ってはいないのでしょうが、駒子の感情はもう少し歪なものだと思われます。
駒子は島村が葉子に関心を示しているのが面白くないのです。
それは島村に対しての恋慕からというより、葉子に対する憎悪によるものでしょう。駒子からすれば、行男を奪った挙句に島村まで奪おうとしている風に見えるからです。
駒子が葉子に恨みつらみを募らせるのはいたって仕方のないことです。でも一概に葉子のことをただ憎んでいただけなのかというと、そうでもなさそうでした。
行男の死後、葉子は島村と会話する機会があったのですが、この時の彼女は様子が変でした。
駒子を大事にしてくれと島村に頼むいっぽうで、東京に自分を連れて行ってほしいと冗談か本気かわからない大胆な誘いをして、島村を動揺させます。
ここだけ見ると、なかなかの性悪っぷりですね。
しかしこの時の葉子は、行男に寄り添い、母のような慈愛をもって接していたあの時の彼女とあまりにかけ離れています。
そして葉子は島村にこのように告げたのです。
駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです
葉子への敵意に満ちた言葉に思えますが、このときの葉子の様子からして、本気で彼女を心配しての言葉であるという見方もできます。
葉子は行男が亡くなってから、毎日のように彼の墓に参っていました。いくら親しい人だとしても、少々行き過ぎな気がします。
つまり葉子は行男が亡くなってから、精神が病んできていたのです。
駒子はその様子を見て、彼女を心配する気持ちもあったのでしょう。駒子にとって葉子は憎むべき恋敵であり、それと同時に行男を失ったことによる傷を共有する、唯一の相手でもあるからです。
葉子が精神を病んでいたとすると、ラストの意味も違う様相を呈してきます。
最後に繭倉が火事になりましたが、このとき中にいた葉子が二階から放り出されました。
彼女は水平に落ちたという描写があるため、葉子は屋内にいるときからすでに気絶していて、彼女を助けようとした誰かに放り出されたということ。
ではなぜ彼女は気絶していたのか?
火事場ですから一酸化炭素中毒でしょう。ですが、中にいた人がちゃんと逃げていて、周囲にいる人もそこまで深刻な様子がないことから、そこまで大きな火事ではなかったことが伺えます。
他に怪我人や死人が出た様子もなく、なぜか葉子だけが失神していたのです。
それは葉子が火元の近くにいて、なおかつ逃げもせずその場に留まっていたからではないでしょうか。
つまり、葉子が自ら火をつけて、そのまま自分ごと燃やしてしまう気だったのかもしれないということ。
これは考察というより妄想に近い想像ですが、十分にありえることだと思います。
そして倉の骨組みの木が葉子の顔の上に落ちてきて、そのまま燃え出しました。
この状況が、冒頭のシーンに繋がります。鏡に映った葉子の顔が夕焼けに照らされ、瞳が燃えているように見えたあの場面です。
あれはまさに、この悲劇を暗示していたのでしょう。
しかし同時にこうも考えられます。あの夕焼けに燃える葉子の瞳は、傍らにいる行男への恋慕の象徴であり、それはつまり、彼女の恋慕が炎へと変わるという隠喩でもあったのかもしれないのです。
顔が燃えた葉子に、駒子は駆け寄りました。誰よりも憎く思っていた相手なはずなのに、このときの駒子はまるで葉子の姉のようにも見えました。
そしてこのように必死に叫ぶのです。
この子、気がちがうわ、気がちがうわ
気がちがうとは、精神がおかしくなるという意味。
最初は、「顔に大きな火傷が残ったら、葉子は正気じゃいられないわ!」ということなのかと思いましたが、たぶん違います。
なぜなら駒子はこの火事の前から、葉子の精神が崩壊していっているのを察していたからです。
もしかしたら、火事を起こしたのが葉子であると薄々感づいていたのかもしれませんね…
まとめ:こんな人におすすめ
「雪国」はこんな人におすすめです。
- 名作文学に挑戦してみたい
- 美しい情景描写に心動かされる
- 日常的に文章を書いている
難解な小説ではありますが、難しい日本語を多用しているわけではないので、名作文学の中では比較的読みやすい部類だと思います。
なので、文豪の作品に初挑戦してみたい方にもわりかしお勧めです。