「天気の子」のあらすじと感想。もう一度観たくなる考察を解説します!

「天気の子」のあらすじと感想。もう一度観たくなる考察を解説します! アニメ・ドラマ

どうも、広く浅いオタクの午巳あくたです。

今回は新海誠監督作である「天気の子」について語りたいと思います。

末視聴の方向けのあらすじと感想に加え、視聴済みの方向けの考察と解説も書きましたので、どちらの方も楽しんでいただければと思います。

あらすじ

生まれ育った島を出て、高校生の森嶋帆高は船で東京までやってきた。

突然振り出した豪雨で船が傾き、投げ出されそうになったところを須賀 圭介に助けられる。命を助けたお礼にと、食事とビールを奢らされる帆高。

船が着陸し、東京に地面に降り立った帆高は圭介から別れ際に「困ったことがあったら連絡しな」と名刺を渡される。

ネットカフェに泊まりながら、仕事を探そうとする帆高だったが、身元もはっきりしない男子高校生を雇う店も会社もなかった。

降りしきる雨と、世間の冷たさを実感する帆高。途方に暮れ、ハンバーガーショップのコーヒーで夜を凌いでいた穂高に、ハンバーガーが差し出される。

驚いて顔を上げる帆高の目に、自分とそう年齢も変わらないであろうアルバイトの少女の姿が映る。

「きみ、三日連続でそれが夕食じゃん」

そう言って少女は、天野陽菜は、仕事に戻っていく。

そしてこの出会いがこの世界の運命を大きく左右することになるのだった…

感想:新海誠の作家性が発揮された意欲作

「天気の子」はアニメ作家 新海誠さんのある種の挑戦だったんじゃないかと思います。

新海誠さんの出世作と言えば、本作の一個前の映画「君の名は」ですね。伏線や回収、そして結末に至るまですっきりとまとまった、精緻で美しい一枚絵のような作品でした。

間違いなく名作ではありますが、「君の名は」という映画は新海誠さんの本来の作風ではありません

その根拠は君の名はよりさらに前の新海誠作品である、「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」という短編映画を観ればわかります。

両作品とも様々な解釈の余白があり、精緻でもなければ、すっきりまとまってるとはとても言えない抽象的な作風なのです。

「君の名は」はおそらく新海誠的にはかなり抑えた映画だったと思います。それはひとえにアニメ作家として興行的な成功を収めるための、ある種の妥協だったのでしょう。

その目論見は見事な成功をおさめ、またたくまに彼の名は世間に轟きました。

おそらく「天気の子」の公開当初は、誰もが前作のような精緻なエンタメ作品を期待したことでしょう。予告を見た限りでは、前作に引き続きファンタジー要素を加味したボーイミーツガールの青春モノなのですから、当然のことです。

ですが蓋を開けてみれば、思ってたのとけっこう違うお話で、様々な解釈の余白があり、精緻でもなければ、すっきりまとまってるとはとても言えない抽象的な物語だったのです。

良くも悪くも驚かれた方も多いことでしょう。実際にネット評価も賛否両論巻き起こっていました。

なぜ新海誠は前作のような作品を描かなかったのか?そこに彼の挑戦があると思うのです。

世間の注目が集まるなか、何百万人という観客に対し、「自分の作りたいものを作り、納得させたい」というクリエーターのエゴを押し付けたのです。

これまでのアニメ映画でそんなやり方が許されていたのはジブリくらいのもの。下手をすれば酷評の嵐を巻き起こし、アニメ作家としての地位も危うくなる賭けだったと思います。

それでも作家として挑戦した新海誠さんに、僕は敬服せざるを得ません。

僕個人の感想でいうなら「天気の子」は、「君の名は」よりも、直近の「すずめの戸締り」よりも好きな作品です。

考察:「天気の子」における3つの謎

※この章では重大なネタバレを含みますので末視聴の方は飛ばしてください

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天を泳ぐ魚の象徴

本作でもっとも謎めいている存在と言えば、雲の中を泳ぐ水でできた魚でしょう。作中でもいろいろな人間から目撃され、話題になっていました。

この魚がなんなのかについて、作中では言及されておらず、最後まで謎だったと思います。

おそらくですが、この魚は人々の「願い」の象徴だと思われます。この世界における人々の願いとは何かというと、「晴れた空を見せて欲しい」に他なりません。

序盤では魚は明確な形を成しておらず、それっぽく見えるくらいの状態でした。それは多くの人は雨が続いても仕方ないと諦めているからだと思われます。

天気のことなんて、人間がどうこうできるものじゃないことを知っていますからね。だから願いの象徴である魚の形もぼんやりとしていたのでしょう。

そこに陽菜という少女が現れました。そう、祈るだけで雨をやませてくれる存在です。

陽菜が現れ、その力を目の当たりにし、人々の願いがはっきりとした形を成しはじめたのです。そして、メディアに報じられ、たくさんの人々が彼女の力を認知することになりました。

そして陽菜が天に攫われそうになるのはその直後、つまり巫女の力を多数の人々に認知されたあとだったのです。だからそれ以降では、魚がはっきりと形を成し、なおかつ大群となったのかもしれません。

するとある仮説が成り立ちます。たくさんの人々の願いが集まることで形を成し大群となった魚が、天気の巫女を連れ去り人柱とするのではないか?というものです。

つまりもしもメディアが報じなければ、陽菜は何事もなかったかもしれないということ。

そうだとしたら、あの魚たちの見方も変わってきます。願いと言えば聞こえはいいですが、その実態は無責任で利己的な主張です。それが集まりすぎたせいで、巫女が人柱になるのなら、実に残酷な宿命と言えます。

もしその宿命を拒絶し、かつその事実を世間が知ったら、人々は巫女をどのように扱うのでしょうね…

銃の意味

この作品でとりわけ問題視されているのが、帆高がファーストフード店で拾った拳銃の存在

日本の飲食店になんでそんなものがあるのかについて、いちおうの説明はありますが、やはり家出少年が偶然拳銃を手にするというのはリアリティに欠けます。

しかも銃が物語において重要な役割を担うのかと言われると…それも微妙です。クライマックス直前の警官との大立ち回りを、少し賑やかす程度のものでした。

はっきりいって、「天気の子」において拳銃というモチーフは浮いています。新海さんはなぜこんなモチーフを使ったのでしょう?

ただ劇的な画を撮るため?いやいや、ここまで挑戦的な作品を手掛けるような作家がそんな雑なことをするわけがありません。この銃には象徴的な意味があると考えるべきでしょう。

銃から連想されるのは「暴力」、日本においては「反社会性」の象徴でもあります。

そして作中において常に社会に反抗し続けた存在がいます。言うまでもなく主人公の帆高です。

家を出て一人で東京に来て、子供だけで生きようとしますが、社会はそれを許さず、社会を担う大人たちから逃げ続け、死に物狂いで抗い続けてきたのが帆高なのです。そして帆高の精神には、社会への鬱屈とした怒りがあり、映画の随所でそれが垣間見えていたのです。

しかし目的地の寸前で、警官たちに追い込まれた帆高が手にしたのが銃、社会に抗う術としては最後の手段である「暴力」を振りかざしたのでした。

これは帆高の社会への怒りと、陽菜に会うためなら暴力もいとわないという意志を示すために、人類史上最強の暴力である銃というアイテムを、あえて彼に持たせたのだと思います。

要するに拳銃は帆高の反社会的なスタンスと、暴力すらいとわない狂気的な想いの象徴だと考えたわけです。

ところで銃を手にした帆高はどうなったか?

大人たちに組み伏せられ、捕まりそうになります。

そしてなんやかんやあった後はどうなったか?

帆高は実家に戻され、陽菜や凪も大人の保護下に置かれます。つまり社会に屈服させられたのです。

銃という最強の暴力を振りかざしても社会を揺るがすことができない、人間の無力さを示唆する意味もあるのかもしれません。

須賀 圭介の役割

須賀圭介は作中でとりわけ意味深な立ち回りをしてるキャラクターです。

どう見ても家出してきたとわかる帆高を拾って住まわせてやったかと思えば、途端に大人ぶって実家に帰れと諭したり。

ラストでも廃墟にやってきて帆高に警察に戻るよう説得したかと思えば、途中で警官に掴みかかったりと、どっちつかずの動きをしています。

おそらく須賀圭介の作中における役割は、「大人と子供の中間で揺れ動く存在」なのだと思います。

大人たちから冷遇される帆高に手を差し伸べたのは、彼自身の大人になりきれていない部分がそうさせたのかもしれません。

しかし子供と面会できるようになったことで、天秤が傾き始め、大人としてとるべき行動を選択するようになります。

ですがそんな圭介をさらに揺るがせる事態が後半にあります。彼が突然涙を流したあのシーンです。

実は小説版では当時の圭介の心境が語られています。

「俺にも、かつていたのだ。明日香。もしも、もう一度君にに会えるのだとしたら、俺はどうする?俺もきっとー。」

とモノローグで語っています。陽菜にもう一度会うために帆高が必死になっていると知り、自分と重ね合わせ、もう会えない妻を想って流した涙だったのです。

ここで圭介の妻である明日香についても触れておきましょう。はっきりと言及はされていませんが、圭介は明日香と死別しているとみて間違いありません。

そして彼が涙を流す直前、刑事が子供の身長を記した家の柱に注目するカットがあるのですが、そこにはこのように書いてありました。

「もか1さい!」「萌花 2歳」「萌花 3歳」

1歳までは平仮名で、2歳以降は漢字です。1歳は明日香で、それ以降を圭介が書いていたと考えるのが自然ですね。

ということは明日香が死んだのは萌花が産まれてからおよそ1年後。出産して間もなく亡くなったということになります。

そこで明日香は病弱で出産が寿命を縮めることになると承知で、萌花を産んだのではないかと考察しました。

そう考えると、これ以降の圭介の行動が納得できるからです。

廃墟に赴いた圭介はまず帆高に諦めるよう説得します。陽菜の犠牲によって空が晴れたことを、薄々感づいているのにも関わらずです。

圭介は陽菜の犠牲を否定できません。それは、子供のために犠牲になった明日香の否定、ひいては萌花という最愛の娘の存在の否定になるからです。

しかし、帆高の「俺はただ、もう一度あの人に会いたいんだ!」という叫びによって、自分の本心を目の当たりにするのです。

そして最後にどちらの側に立つのか決めたのでした。

ラストシーンと最後のセリフ

「天気の子」はラストシーンもだいぶ意味深です。

再び東京にやってきた帆高は、坂道の上で祈りのポーズをしている陽菜の姿を目にして、刮目します。「やっぱり僕らは世界の在り方を変えたんだ」と何かに驚き自覚させられたようなニュアンスのモノローグが流れました。

帆高は何に驚き、自覚したのでしょう?

陽菜は祈っていました。陽菜が祈るとどんなことが起こったでしょうか?

そう、雨が止むのです。つまり陽菜はまた巫女の力を使おうとしていたのだと思います。なぜなら陽菜は、自分が犠牲にならず、雨をやませなかったことを悔いていたと考察できるからです。

そう思う根拠が圭介が帆高に見せた写真です。

久々に会った帆高に圭介が見せた写真には、自分と娘の萌花と、姪の夏美、そして陽菜の弟である凪が映っていました。なぜ陽菜がいないのでしょうか?圭介の映り方からして明らかに自撮りなので、撮影役であるとも考えにくいです。

成長した陽菜の姿を、帆高が最初に目にするのが写真っていうのは…という脚本の都合とも考えられますが、それなら写真を見せる件そのものがそもそも必要ないでしょう。

そこで陽菜は悔恨に苛まれ、人と関わることを避けていたのではないかと思ったわけです。

そして注目すべきは、二人の再会後の演出です。

帆高に呼び止められ、彼のもとに走ってきた陽菜。二人は手を取り合って対面しました。

そのとき、二人の横顔に光があたっていたのです。そこにいたるまで、空は厚い曇天に覆われていたはずなのにです。

つまり陽菜の祈りによって、やや晴れかけたからじゃないかと思ったわけです。

だから帆高はふたたび陽菜の力を目の当たりにし、「世界にあり方を変えたんだ」と実感したのではないでしょうか。

悔恨に苛まれ、陽菜がまた力を使うということは、それは再び自分を犠牲にしようとしているということ。そしてそれを止めたのは、またしても帆高だったのです。

つまりあのシーンは、二度目の救済だったかもしれないのです。

そう考えると最後のセリフの解釈も変わってきます。

「僕たちはきっと、大丈夫だ」

僕たちとは、陽菜と帆高のことに聞こえますが、そうではなく二人を含めた人間全体のことだと思います。

永遠の雨に晒されても、東京は崩壊せず、なんんだかんだで人々は日常生活を営んでいます。それを東京に戻ってからの帆高は見てきました。

そして圭介からこんな言葉を与えられます

「世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから」

ラストのセリフは、世界がどう変わろうと人間は図太く生きていける、だから後悔なんかしなくていいんだという、陽菜へのメッセージなのかもしれません。

解説:天気の子は何を伝えたかったのか?

※この章では重大なネタバレを含みますので末視聴の方は飛ばしてください

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この作品のテーマは「利己主義の肯定」だと思います。

帆高がネットカフェにいるシーンで、「ライ麦畑で捕まえて(原題:The Catcher in the Rye)」という小説が映るカットがあります。

ネットカフェに置いてあるようなものではないので、おそらく帆高が持参してきたものでしょう。

やけに意味深に映ったこの小説について少し解説します。

ストーリーの概要は、ホールデンという高校生が全寮制の学校を退学し、家に戻らずに各所を旅してまわるというもの。

このホールデンというキャラは、とにかくまあ利己的な性格。社会というものを唾棄し、出会う人々に対して尊大に接したり、平気で嘘をついたりと、反社会性さえ垣間見えるくらい身勝手です。

その反社会的なパーソナリティーからくる言動や思想と、それに伴う暴力描写や性描写が問題視され、この小説がアメリカの学校や図書館から追放される事態にまで発展しました。

そんな小説に影響を受けたのが帆高という少年。彼もまた非常に利己的な行動が目立ちます。

ただそれは思春期の少年らしい、幼さと青臭さが伴う利己主義です。そして聞いててむず痒くなるような夢想を本気で叶えようしていました。

ですがその利己主義が、世界の在り方を変えてしまったのです。

「天気なんて、狂ったままでいい」

と、ただ陽菜に会いたいという想いひとつだけで彼女の手を取り、東京を永遠に続く雨に晒すことを選びました。

そんな帆高を見て、観ている我々はどう感じたでしょう?

もちろん憤った方もいるとも思います。しかし彼を肯定したくなった人も、少なからずいらっしゃるでしょう。

なぜこんなにも身勝手な少年を、肯定してしまうのか?

それは社会が帆高と陽菜に対してどこまでも冷たく、そして利己的であったからです。

冒頭では路頭に迷う帆高に対し、大人たちがひどく冷たく接しているシーンが目立ちます。

また誰にも迷惑かけず、弟とひっそりと暮らしたいという陽菜のささやかな望みも、大人たちは聞き入れようとはしませんでした。

もちろん大人たちの行動は、いたって普通です。身元もわからない少年を雇うわけにはいかないし、中学生以下の子供だけで暮らすことを許容するわけにもいきません。

ですがそれはあくまで大人たちの都合。本気で自分たちだけで生きたいと願っている子供たちからすれば、どこまでも冷酷な仕打ちです。

そのくせ、自分たちに利があると分かったとたんに、彼らを持て囃し、祭り上げ、公共の電波に載せたりもしました。

この映画は子供の視点から見た、大人社会の冷たさと利己的な集団意識をやや外連味をもって、皮肉気に描いています。

そんな世界のために犠牲を払う価値など、本当にあるのか?という問いに対するアンサーが

「天気なんて、狂ったままでいい!」

という帆高の叫びに込められいるのかもしれません。

そしてもうひとりの利己主義者が、新海誠監督です。

感想の章でも述べたように、この映画は「君の名は」とガワは似ていても、中身はまったくの別物。作家のエゴイズムが反映された作品です。

前作のような物語を期待していたファンからすれば、裏切りと捉えられかねない行為です。

しかし「裏切られた」という感想こそ、「自分を満足させてほしかった」というエゴイズムが含まれていないでしょうか。

世間は著名な個人に利他的であることを望みますが、「利他的であれ」という主張がそもそも利己主義的ではないでしょうか。

そんなエゴを否定し、自分のエゴを押し通し、「天気の子」という作品が生まれたのなら、僕は新海さんの利己主義を肯定したいと思えました。

まとめ:こんな人におすすめ

この映画はこんな人におすすめ

・「君の名は」以前の新海誠作品が結構好き

・評価が賛否両論なコンテンツに惹かれる

・「ライ麦畑でつかまえて」を読んだことがある

「君の名は」みたいな感じを期待すると、もしかしたらしんどいかもしれませんね。やや尖った作風を好むかたにはとてもお勧め。

それと観たことあるけどよくわからなかったという方は、ぜひブログの考察や解説部分を一読したあとに観直してみてください!

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