物語における「ご都合主義」とは何か?

物語における「ご都合主義」とは何か? コラム

どうも広く浅いオタクの午巳あくたです。

今回は小説でも漫画でも映画でも、評価の低い作品にいわれがちな「ご都合主義」というものについて、語ってみようかと思います。

ご都合主義と呼ばれるもの

世の中でご都合主義と呼ばれる要素は例えば以下のようなもの。

  • ピンチになった主人公が潜在能力を目覚めさせる
  • 冴えない男子生徒(女子生徒)がマドンナ(イケメン)に気に入られる
  • 事故で死んだら異世界に飛ばされ、チート能力で無双し、異性からモテまくる
  • 逃亡中に敵が油断してくれて難を逃れる

などなど、言い出したらキリがないほど、ご都合主義の例はたくさんあります。

ではそもそもご都合主義の「都合」とはなんなのか?というところから考えてみましょう。

都合とは「設計図」である

たとえ何と言われようと、主人公は”たまたま”眠れる潜在能力を目覚めさせピンチを切り抜けなければならないし、パンを加えて通学路を走る少女は角でイケメンと”うっかり”ぶつからなければならず、探偵は”ひょんなことから”殺人事件に遭遇せずにはいられない。

なぜなら、でないと話が進まないからです。

漫画ならネーム、小説や脚本ならプロット、物語には作者の設計図が存在します。そしてキャラクターたちには概ね設計図通りに動いてもらわなければならないのです。

この設計図こそが都合、もっと正確に言うなら「作者の都合」と呼ぶべきもの。

ひいてはすべての物語には都合があると言えるでしょう。プロットを作らずにいきなり本文から書き始める作家もいるでしょうが、それでもなんとなくの展開は頭に思い描いているはず。

ですが、この章の冒頭にあるような、たまたま、うっかり、ひょんなことからに起因する展開、つまり「偶然が作用した展開」になると、途端にご都合主義的だと批判されがちなのです。

なぜなら偶然が作用してしまうと、その世界の神の意図が透けてしまうから。創作の世界における神とは誰か?そう、作者のことです。そして世間の人々は創作の世界の神には手厳しいものです。

「現実の偶然は神のいたずら、物語の偶然は作者の都合」←この表現、褒めてくれてもいいんですよ

誰もがこれをなんとなくわかっているからこそ、偶然が作用した展開はご都合主義とされてしまうのです。

しかし、しかしです。偶然というファクターをいっさい排除した物語は、はたして名作となり得るのでしょうか?

映画「タイタニック」で貧しい絵描きの青年が豪華客船に搭乗できたのは、運良くポーカーで勝ってチケットを手に入れたからであり、つまり偶然によるものです。それを否定したら、レオ様を上流階級の金持ちという設定にしなければなりませんが、そうなっていたとしたらあの映画は世界的なヒットを飛ばせたでしょうか?

そう、偶然とは作者の都合であると同時に、「彩り」なのです。

だからこそ作者は、創作の世界に偶然という彩美な風を吹かします。でもそれは「おいおい、こんなのご都合主義だろ!」という大火の火種にもなる。

では、どうすればよいのか?

DBから学ぶ「偶然を必然に魅せる」やり方

ご都合主義の上手い隠し方として、例を挙げたいのが「ドラゴンボール」です。

あらゆる少年の脳を発火させたあの名シーン、「孫悟空の超サイヤ人覚醒」を紐解いていきましょう。

念のため、悟空が覚醒したシーンをざっとおさらい。

  1. 元気玉がフリーザに直撃
  2. 勝ったと思って安堵する、悟空、悟飯、クリリン、ピッコロ
  3. しかしフリーザは生きていて、クリリンを狙撃して死亡させる
  4. 怒りに目覚めた悟空がついに超サイヤ人に覚醒する

はい、いわゆる「眠れる潜在能力が目覚めて覚醒」というご都合主義の典型的なパターンです。

ですがこのシーンをご都合主義だと非難する声ってあまりないですよね?

まあ「主人公覚醒」の金字塔的な漫画ですから許容されている部分はあると思いますが、それだけではなく悟空の覚醒にしっかりと納得感があるからだと思うんです。

なぜなら、悟空の覚醒は偶然ではなく必然だからです。覚醒の後に悟空はこのように語っていました。

穏やかな心をもちながら、突然の怒りによって目覚めた伝説の戦士…超サイヤ人!孫悟空だあああ!

パチパチパチパチ(スタンディングオベーション)、今思い返しても初めて読んだときの、脳内がスパークする感覚が鮮やかに蘇る名シーンです。

しかし今回注目したいのは「突然の怒りによって目覚めた」の部分。ここは超サイヤ人に覚醒するための大事な条件にあたるところです。

悟空が怒った理由は、当然ながらクリリンが殺されたからです。でも悟空にとって近しい存在が死ぬのはこれが初めてではありませんし、というかなんならクリリンが死ぬのも初めてではありません。

ではなぜ、この状況が「突然の怒り」という特別なトリガーとなり得たのか?

実は

悟空が身近な人間の死を”目の当たり”にするのが初めて

だったからだと思います。

これまでクリリンや亀仙人、飲茶や天津飯など、悟空にとって身近な人が死んだとき、悟空は側にいなかったんですよね。

そして初めて目の当たりにした近しい者の死が、自分にとっては兄弟同然のクリリンだったわけです。

鳥山先生がこのシーンのためにあえて悟空に近しい者の死を見せてこなかったのか、それともたまたまそうだったから上手く利用したのかはわかりませんが、いずれにしても「突然の怒り」のトリガーとなるには十分な要因だったでしょう。

これに加えて、フリーザ編の当初からベジータ経由で「超サイヤ人」という存在は仄めかされており、しっかりと前振りもしているわけです。

これらの要素により、悟空の超サイヤ人覚醒は偶然ではなく必然だったと読者は刷り込まれるわけです。

つまるところ偶然を必然に魅せるやり方は、「伏線を張っておくこと」、「説得力のある”きっかけ”を作ること」であると思います。

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