映画の魔法をディスペルするポリコレ表現

映画の魔法をディスペルするポリコレ表現 コラム

ハリウッドやディズニーの超大作は、一昔前であれば公開日に胸を躍らせて劇場に足を運び、観終わったあとは、ある程度の波はあるものの、概ね高揚感とともに劇場を後にできたものです。

ところが昨今では、いちまつの不安を抱えながら座席に座り、観終わったあとは単純な面白かった・つまらなかったという評価基準とは別軸のポイントで、渋面をたたえながら座席を立つ機会が増えてしまいました。

かつての映画には魔法がありました。いや厳密にいえば、今でも魔法はあるのですが、スクリーンから放たれる映画の魔法を、映画そのものが否定(ディスペル)してしまうことが多くなってしまいました。

映画の魔法に対するアンチマジックがいわゆる「ポリコレ表現」です。

語源は「ポリティカル・コレクトネス(political Correctness)」。性別や人種など、特定のグループに対して差別的な意味や誤解を含まぬよう、政治的・社会的に公正で中立的な表現をすること。

崇高で立派な思想ではありませんか。にもかかわらず、このポリコレ表現が昨今の映画批評における一種のムーブメントになり、かえって分断を深めている要因になっているのですから、なんとも皮肉な話です。

海外の大作が放映されれば「ポリコレ表現がウザい」だの「ポリコレを意識しすぎてキツイ」だのといった評価がネットに飛び交います。

ところでなぜ映画のポリコレ表現がこれほど嫌われるのでしょう?

それは「製作者の顔とスポンサーのロゴがドアップで表示されるに等しい」からだと個人的には思います。

僕らは映画が作りものであることを知っています。愛し合う恋人同士はエージェントを通してオファーを受けたプロの役者同士だし、崩壊する巨大なビルはグリーンバックに投影されたCGであることを重々承知のうえで、映画を観ています。

そのうえでときに涙を流し、グッと握った掌に汗が滲む。作りものだと理解しているのに心が動いてしまうのが、映画の魔法のなせる業。

魔法の正体は、本物と区別がつかない精巧なCGやセット、カメラワークの妙や巧みな演出、鬼気迫る役者の演技など、表裏問わずあらゆるプロフェッショナルの仕事です。

ハリウッドやディズニーとなれば、何十億という資金を投入し、この魔法を編み出しています。

と・こ・ろ・が

この魔法を一瞬でディスペルしてしまうのがポリコレ表現。

なぜならポリコレ表現は映画の魔法を担うのではなく、「私たちはポリティカル・コレクトネスを尊重します」というメッセージを担うからです。

魔法は観客を心を騙すためのもの、しかしメッセージは観客の心に直接訴えかけるものだから、相反するのは当然のこと。

それはつまり、恋人同士の感動的なキスシーンで、海辺の夕焼けの空に監督の顔写真とスポンサーのロゴがどーんと表示させているに等しいわけです。

映画でそんなことをすれば興ざめもいいところ。だからこそスポンサーや製作スタッフ、監督の紹介はすべて終わったあとのエンドロールでまとめやるわけです。

エンドロールでやるべきことを、劇中でやられるから辟易してしまうのも仕方ありません。

しかも観ている側に確実に伝えなきゃならないわけですから、さりげなく仕込むというわけにもいかず、どうしたって「これみよがし」になってしまうのも頭の痛い話です。

現在の映画は何十億もかけて観客に魔法をかけ、同じ時間軸で自らの政治的メッセージを発信しその魔法を解除してしまうという、「誰得?」と首をひねりたくなるマッチポンプをやっているのです…

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