昨今では物語を摂取するのはいたって簡単です。
映画やドラマは月1000円も払えば、何十万という本数の中から好きなものから選べ、現代において物語を摂取することは、「早い」「安い」「上手い」のファースト娯楽と言えるでしょう。
そんな時代であるため、「本離れ」は加速する一方なのが悲しいところ。
一昔前であれば、小説はコスパの良い娯楽という立ち位置がありました。文庫本であれば何百円か払うだけで、図書館を利用すれば無料で、少なくとも丸一日はつぶせました。
映画は2000円弱払って数時間、DVDレンタルにしても丸一日つぶそうと思えば1000円は必要な時代がありました。
テレビは無料ですが好きな番組を好きなタイミングで観れるわけではなく、漫画は小説よりやや安いですが小説ほど長時間の時間を潰せる代物ではありません。
そんな時代であれば小説はいたってコスパの良い娯楽として、確かな立ち位置があります。
しかし昨今は先ほども申し上げたようにサブスクが定着し、YouTubeという非常に手軽な映像コンテンツまであります。
小説を読むという娯楽はもはやコスパですら、映像コンテンツに負けてしまいました。ところが僕のように、あえて小説というコンテンツを選ぶ人間は、少なからずいます。
ではなぜ、こんな時代においても小説という媒体で物語を摂取することを選ぶのか?を考えてみたのです。
そして「小説とは物語の弾き語りである」という結論に達しました。つまり音楽に置き換えて考えてみたわけです。
ギターもドラムもベースもあり、その他の打ち込みの音もバックで流し、さらにコーラスまであるような音楽が現代のポップシーンでは主流ですよね。
しかし一方で、ギター一本、ピアノ一台で歌う「弾き語り」というスタイルも根強く存在しています。
そして両者は好みの違いこそあれ、優劣はありません。両方とも好きだという人も珍しくないでしょう。
この例は物語においても同様です。
映像に音響、さらには演出など、様々な要素を組み合わせて物語を語る映像コンテンツは、まさにフルバンドの音楽です。
そしてギター一本を片手にしっとりと歌い上げる弾き語りが小説というわけです。
クラッシックでも、好んで聞かれるのはオーケストラだけではありません。ピアノソロやデュオなどを好む方も少なからずいらっしゃるでしょう。
また食事においても、テーブル一杯に並んだフルコースの料理の良さもあれば、一杯のお茶漬けがこの上なく美味しく感じる瞬間もあります。
つまるところ、僕らは昔から「情報の少なさを楽しむ」すべを心得ているわけですね。
よってある程度の流行、廃れはあっても、小説を読むという娯楽が消えてしまうことは無いと思います。とういうかそうでなくては困りますね。