どうも、広く浅いオタクの午巳 あくたです。
今回は太宰治の「人間失格」について語りたいと思います。
文学史上最も著名な小説の一つである本作のあらすじと感想、そして楽しみ方を解説いたしますのでぜひお付き合いください!
あらすじ
太宰治の「人間失格」は、主人公・大庭葉蔵(おおばようぞう)の手記を通して、人間としての自信を喪失し、社会から孤立していく姿を描いた作品です。
物語は、幼少期から大人になるまでの葉蔵の心の葛藤と転落の過程を、三つの手記を通して描写しています。
幼少期の葉蔵は、自分が他人と違うことを強く感じながら育ちます。そして人間関係の中で恐怖を感じ、他人に合わせるために道化を演じるようになりるのです。
彼は周囲の期待や社会的な規範に従うことができず、次第に自分を「人間失格」と感じるようになります。彼にとって、他人に理解されることは難しく、また自分を理解してもらうことも難しく、孤独感を強めていくことになる。
やがて成長する中で、酒に溺れ、良い仲になった女性との関係に依存し、堕落しきった生活を送るようになる。そしてそんな自分に対しての自己嫌悪も酷くなっていくいっぽうでした。
彼は自分を欺きながら他者に愛されようと努力するものの、その努力はどれも失敗に終わります。東京での放蕩生活が続く中、彼はアルコールだけでなく薬物に溺れ、さらに堕落していきます。彼の周りには理解者はおらず、やがて親友との関係も崩壊していくことに。
最終的に葉蔵は、女性と心中を図りますが、自分だけが生き残り、さらなる自己嫌悪と社会的な孤立に陥ります。
彼は精神病院に入院し、そこで完全に人間としての尊厳を失います。「人間失格」という言葉は、彼の人生そのものを象徴し、社会との繋がりを完全に断ち切られた存在としての彼を表しています。
この作品は、自己の存在意義に悩む人々や、社会からの孤立感に苦しむ者たちの心情を鋭く描いており、太宰治自身の人生と重なる部分が多いとされています。作品全体を通して、社会からの期待に応えられない自分への絶望と、他者との深い断絶が主題として描かれています。
読んでみた感想
病的なまでの自意識に人間が蝕まれていく様相がとにかくリアルで、恐ろしいものに感じました。
まず少年期の葉蔵は自分が人と違うと感じ、それを隠すために道化を演じるようになります。
しかし、そういう感覚って多かれ少なかれ誰しもが経験するものですよね?
特に思春期ともなれば、「自分は人と違う」と思わない人間の方が少ないでしょう。それを誇るのかあるいは恥じるのかは、人によって違うところではありますが、葉蔵は後者だったわけです。
やや過剰すぎるきらいはあるものの、少年期の彼は実はそこまで特殊な存在ではなかったのではないかと、個人的には感じました。
問題なのは、その肥大していく自意識に歯止めがきかず、大人になってからも苛まれ続けたところにあるんじゃないかと思いました。
ではなぜ彼は大人になってからも自意識の肥大を止められなかったのか?
僕は作中にあるこの一文が鍵だと思いました。
しかし、嗚呼、学校!
自分は、そこでは尊敬されかけていたのです。
そう、彼は学校では人気者だったのです。生徒たちからだけでなく、先生からも一目置かれる存在だったのです。それくらい葉蔵が顔につけた仮面は精巧で、魅力的なものだったのです。
そして誰もが彼を肯定した。この肯定が彼の成長を歪めてしまったのだと僕は考えます。
肥大した自意識に苛まれ、自分の殻の中に閉じこもってしまうことは、思春期の少年少女においてはありがちなことです。
しかしそのような場合は、だいたい二つに分かれます。
友人なり家族なりから手を差し伸べられ、ゆっくりと殻を破っていくケース。
クラスで孤立してしまうケース。
幸運にも誰かから手を差し伸べてもらい、それがきっかけで明るくなるケースはよくあります。
また、クラス内で孤立する場合においても、ある種それを教訓として「このままじゃダメだ」と奮起するきっかけにもなりえるのです。
しかし、大庭葉蔵の場合はどちらにも当てはまりません。なぜなら彼は人気者だからです。
周囲から尊敬されみんなから好かれている人に、誰が「手を差し伸べてあげよう」なんて思うでしょう。
周囲から常に肯定され続けている人間に、「このままじゃダメだ」と感じる瞬間など訪れるわけもありません。
つまるところ大庭葉蔵は器用すぎたのです。それは一種の才能のはずでですが、加えて人並以上の自意識という個性が、最悪の食べ合わせだったわけですね。
もしも少年時代に、彼の抱える闇に気づき、手を差し伸べるだれかがいたのなら、このような惨めで悲劇的な人生を送ることもなかったのかもしれません。
楽しみ方
ぜひ正直に言ってみてください「ガチの文学は小難しくて楽しめない!」とw
わかります。ひじょーにわかります!
僕も正直に言いますが、この手の近代文学の作品を読んでもきちんと理解できているとは言えません。なので、倦厭していた時期はあります。
しかし僕なりの楽しみ方を見つることで、なんだかんだで面白く読めるようになりました。
以降で小難しい名作を楽しむ方法をご紹介します!
現代にも共通するポイントを見つけてみる
太宰作品に限らず、名作文学というのは昔々に出版されたものです。
人間失格が文壇界に登場したのは1946年。戦後まもなくの時代ですね。今とは何もかもが違います。
しかしそんな中にも今と変わらない部分があります。それが「人間性」です。
恋をしたとき、人を軽蔑するとき、あるいは自意識に苛まれる感覚などが今と何ら変わらない色や形で描かれるところは非常に興味深く、人間の普遍的な部分を知ることができます。
特に人間失格の主人公である大庭葉蔵は、非常に共感できるポイントが多いです。正確に言えばある種の人間には非常に強く共感できると言うべきでしょうか。
本作は大庭葉蔵の第一人称の視点で描かれますので、彼の心境が色濃く描かれています。ぜひ共感できるポイントを探してみてはいかがでしょう?
作品の逸話や時代背景を知ったうえで読んでみる
例えば「人間失格」は、太宰治の自称伝的な小説と言われています。主人公の人生は、太宰治との共通点が非常に多く、少なくともモデルは間違いなく太宰治本人でしょう。
学校の教科書にも載るような偉い偉い作家さんの人生ってどんなものだったのか、気になりません?
そして読んでみたらとんでもなくダメな男のダメな生活っぷりが描かれているのですから、これが太宰治の生き方だったのかもしれないと思ったら、なんだか親近感すら湧いてしまいそうです。
また出版当初の時代背景を知ってみるのもおすすめ。
人間失格が出版されたのは1946年。戦後まもなくであり、日本がアメリカの占領下にあった時代です。
激動の時代でした。戦時中とは何もかもが変わっていき、目まぐるしく世界が変わっていく様相を、当時の人々は目の当たりにしたでしょう。
そんな世界を、太宰治はどのように捉えたか?答えはもしかしたら人間失格にあるかもしれません。
主人公の大庭葉蔵は子供の時からまったく成長していません。でも周囲は大人になり変わっていきます。また世界もまた目まぐるしく変化しています。
大庭葉蔵は、そんな「変化」に取り残されているように見え、そのせいでより孤独を深めているようでした。
もしかしたら変わっていく時代に取り残されそうな絶望と孤独を、太宰治は人間失格という作品で表現したのかも…なーんて思ってみたりして。
解釈を楽しむ
ここまでの僕の解説はすべて解釈です。「もしかしたらそんな感じなのかもなー」をもっともらしく語っているだけ。
多くの作品で解釈はできます。映画の考察なんかもまさにそれです。
ですがその「解釈」する余地が、とにかく深くて多彩なのが純文学というもの。
そして作家がこの世を去り、その意図が誰にもわからなくなり、よりその解釈を求められるようになったのが人間失格のような近代文学の作品でなのです。
学校の国語の問題であった「作者の気持ちを答えよ」という問いを、常に自分に投げかけながら読んでみてください。自分なりの答えを見つけた時は、エンタメコンテンツじゃ味わえない快感を味わえますよ。
まとめ:こんな人におすすめ
人間失格はこんな人におすすめです。
- 暗黒の青春時代を過ごした
- さほど勉強しなくても現代文のテストでは高得点がとれた
- 自分はやや自意識が強いと思う
あれ?このおすすめポイント、ただの僕ですね。おかしいなあ…
このブログは人間失格を読む上でより楽しめるよう意識して書きました。
最後まで僕の駄文にお付き合い頂けたなら、口直しにぜひ伝説的な文学の文章を味わってみてはいかがでしょう?