どうも、広く浅いオタクの午巳あくたです。
今回は町田その子さんの「星を掬う」について語りたいと思います。
ここ最近で僕がドハマりしている作家さんの代表作の一つともいえる本作の、あらすじや感想、既に読んだ方向けの考察などをご紹介いたしますので、ぜひ最後までお付き合いください。
あらすじ
少女時代に母に捨てられ、心の傷を抱えながら30手前まで生きてきた千鶴。
賞金目当てで「思い出買取」というラジオの企画に応募し、準優勝となった。だが結果として、母親に捨てられたときのエピソードが放送の電波に載ってしまうことになる。
自分の過去が全国規模で広がることに若干の不快を覚える千鶴。だが生活が苦しいため、いたしかなかった。
生活苦の理由はひとえに元夫の弥一のせいである。離婚したあとも定期的にやってきは金をむしり取とっていく彼に、千鶴の人生は支配されていたのだ。
逆らえば殴られ、逃げても探し出されてまた殴られで、千鶴は半ば諦めに近いかたちで弥一に搾取されることを許容せざるをえなかった。
そんな絶望に満ちた毎日を送っているなか、ラジオパーソナリティーの野瀬から連絡がきた。
「お母様の名前は聖子さんではありませんか?」
教えていないはずの母の名前をなぜか知っていた。ラジオを聞いた視聴者の中に、いま千鶴の母と一緒に暮らしている女性から問い合わせがあったという。
その女性は千鶴と会いたいと言っているとのこと。
複雑な思いを抱えながらも、その女性、恵真と会うことにした千鶴だったが…
感想:一滴の光を地獄の中に描く町田イズム
小さな光は暗闇のなかでなければ輝かないものですが、町田さんの場合は美しい輝きを描くために、まず阿鼻叫喚の地獄絵図を見せる手法を好みます。
本作「星を掬う」はそんな町田イズムが濃縮還元されていました。
あらすじでも紹介したように、主人公の千鶴の人生は悲惨かつ陰惨、そして他の登場人物たちもなかなかにハードな人生を送っています。
それでも過去がどうあれ、傷を抱えたものどうしが寄り合い、互いに互いを支えながら歩めば笑顔で毎日を送れる…とはいかないのもまた町田イズム。
千鶴は序盤で母と再会するのですが、それ以降の展開もなかなかに地獄です。
読んでいる方は感情ジェットコースターに振り回され、心の中で叫び、泣き、息も絶え絶え。でも降車してみると、フワフワした浮遊感とともに「もう終わっちゃったのかあ」という寂しさを感じます。
つまるところ、文学的マゾヒズムとでも言うべき嗜好を想うぞんぶん刺激してくれる作品であるということ。
いじめられるのが好きな方はぜひ。いや、ほんとにズタボロにされますよ、マジで。
考察:星を掬うの意味とは?※ネタバレ
この章では重大なネタバレを含みます。未読の方は飛ばしてください。
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この物語のタイトル「星を掬う」というタイトルの意味を考察してみました。
星というのは、本作においては思い出の事。掬うという言葉は、水の中などにある何かを掬いあげる動作のことをいいます。
聖子にとっては、幼い娘と過ごした短い年月のなかに、星の瞬きがありました。
そして実はその星を大事に大事に胸に秘めて、生きる糧にしていたことが後半に明かされます。
ですがその星は、いまの聖子にとってあまりに儚く、見つけるのが難しい光となってしまいました。
認知症というのは記憶や感情を自身の奥底にある海に沈める病気だ
絶対に忘れたくない記憶も、深い深い夜の海に沈んでしまう無慈悲な病。
人間の頭の中という広大な海の中で、砂塵のような小さな光の粒を見つけることがいかに困難かは、作中での聖子の苦しみをみればわかります。
つまり広大な海の中から小さな光を見つけるという、気の遠くなるような作業の果てにある奇跡を「星を掬う」と表したのでしょう。
そしてもうひとり、星を掬っていた人物がいます。主人公の千鶴です。
彼女は病気ではありませんが、それでも母との思い出を掬いあげるのは困難でした。なぜなら彼女の頭の中は悲惨な人生への恨みやつらみ、憂いに満ちていたからです。
汚泥のごとく淀んだ思考のなかで、小さな光を見つけることもまた、恐ろしく困難なことでしょう。でも母との生活の中に、わずかながらも輝く星を掬っていました。
例えば作中に登場する「うそっこバナナサンド」。子供時代に風邪の時に親が作ってくれる定番メニューってけっこう思い出深くのこっているもんですよね。
千鶴もまたそんなささやかな思い出に、小さな光を見出したのです。
そしてラストシーン。
病院でワンピースを縫っている聖子。そして彼女の広大な記憶の海の中から、ひとつの星が掬いあげられました。
「ばーびーがよかったのにねえ」
それは千鶴が子供の時の記憶。娘のために人形とおそろいのワンピースを作ってあげていた思い出でした。
そしてそんな聖子の星は、千鶴の手の中でも輝きました。聖子が掬ったのは千鶴にとっても瞬く思い出でした。
親子はここで初めて思い出を共有して、分かち合うことができたのです。広大な海の中から、ようやく掬いあげられた星がそれだったのです。
何が変わったわけでも、何が得られたわけでもない。しかし、まぎれもなくこれは奇跡だと、千鶴はそして読者は、実感したのでした。
「星を掬う」の文学的テーマ:名言と共に解説
星を掬うの文学的テーマは、「人生の理不尽さ」と「利己主義の肯定」であると思います。
まず主人公の千鶴ですが、彼女は少女時代に親に捨てられ、父親と祖父母を亡くし、結婚した相手から暴力を受け、離婚後も苦しめられるという、悲惨な人生を歩んでいます。
しかしながら、読んでいる僕はいまいち彼女に同情する気になれませんでした。
それは彼女が利他主義ゆえの、他責思考だったからです。
千鶴はこれまでの人生ではいたって利他的な人間でした。親に迷惑をかけない良い子でいようとし、結婚してからも夫に尽くす大和撫子的な妻としてやっていたのです。
しかしそれは人に尽くすことを喜びと感じるがゆえではなく、責任を自分の中に抱えたくないという他責な考えによるもの。
彼女は自分の悲惨な人生を、ほとんどすべて「母親に捨てられたせいだ」と思っているのが、見て取れたのです。
そして作中で、とある人物からこのように言われます。
不幸を親のせいにしていいのはせいぜい未成年のうちだけだ。自分の人生を、誰かに責任取らせようとしちゃダメだよ。
まさに読み進めながら僕がモヤモヤと感じていたことを、ズバッと口にしてくれました。
千鶴は他者から望まれ承認されることにアイデンティティを見出してましたが、その思考回路ゆえ自分の身にかかった不幸の責任すら他者に求めてまっていたのでした。
そしてそんな彼女と対照的に、利己的な人生を歩んできた存在が、母である聖子です。
聖子はこのように千鶴に言います。
自分の人生は自分だけのもの、よ
友であろうと恋人であろうと、そして血のつながった家族であろうと、誰かのために自分の人生を消費する気はないと、はっきりと断言したシーンのセリフです。
実に利己的で、自分本位な言葉ですね。彼女に捨てられた千鶴からすれば、残酷とすらいえます。
ですがこの言葉は聖子の覚悟であり、諦めでもあるのです。
のちに聖子はこのように発します。
傷口ってのは痛いの痛いの飛んでけって撫でるだけじゃダメなの。汚れた傷口をたわしでこすってごみを出さなきゃいけないときだってあんのよ
これはまさにそのときの千鶴を表していました。
元夫からの暴力に関しては、紛れもなく千鶴は被害者です。しかしそこで受けた心の傷に関しては、彼女自身でどうにかしなければなりません。
一方的な暴力によって受けた傷さえ、さらなる痛みを自分に課して対処しなければならないなんて、あまりに理不尽です。
でもそうするしかない、なぜなら「自分の人生は自分のもの」だから。
つまりこのセリフは利己的な聖子の支柱となる価値観であると同時に、自分のものでしかない人生は自分でどうにかするしかないというある種の諦観なのです。
「誰かのため」の人生を歩めば、そこで生じた痛みや歪を「誰かのせい」にすることになり、囚われれば出口のない迷路に迷い込むも同然。なにせ理不尽を理不尽としてただ嘆くだけなのですから。
だからこそ利己的であれ、というのが聖子の思考であり、この小説のテーマでもあると思われます。
最後に僕がこの本の中でいちばん好きなセリフをご紹介いたします。
人っていうのは水なのよ
触れあうひとで、いろもかたちも変わるもの。黄にも緑にも。熱いお湯にも、氷にも。
真っ白いかき氷に熱いいちごシロップなんてあわないでしょう。離れるなり、タイミングを計るなり、姿を変えるなり、よ
これもまた人生の理不尽さです。人と人との関わりは、往々にしたそんな事態になりがちです。
自分が真っ白いかき氷でいたのに、ある日やってきた熱いシロップによって、生ぬるいいちご風味の水になってしまう。とてもじゃありませんが、口にしたいと思えない代物ですね。
だからこそ逃げてもいい、シロップが冷めるまで待ってもいい、シロップが近づきたくなくなるような真っ黒な氷になってもいい。
なぜなら自分の人生だから。利己的に、自分本位に選んでいいんです。
そして不思議なことに、それがひいては他者のためになったりもするのです。生ぬるいいちご風味の水になりたくないのは、いちごシロップだって同じでしょうから。
まとめ:こんな人におすすめ
本作はこんな人におすすめです。
・重厚な人間ドラマが好み
・どちらかというと尽くすタイプだ
・大きな声では言えないがわりかしマゾっ気がある
なんていうか、精神的なスプラッタといいますか、目を逸らしたくなるシチュエーションが満載です。
これを読んで最高だと思えたなら、あなたも立派な文学的マゾヒストです。