どうも、広く浅いオタクの午巳あくたです!
今回は宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」について語っていきたいと思います。
第164回芥川賞を受賞した本作のあらすじと感想を徹底解説いたしますので、ぜひ最後までお付き合いください!
「推し、燃ゆ」のあらすじと登場人物解説
「推し、燃ゆ」は、宇佐見りんが描く現代の若者と「推し」文化をテーマにした小説です。
物語は、高校生の主人公・あかりが推しているアイドルが不祥事を起こし、芸能界で燃え上がる状況から始まります。
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
アイドルグループのメンバーである真幸(まさき)が、暴力事件により大炎上してしまう。
そんな彼のガチなファンである「あかり」は、それでも真幸を応援し続け、アンチに対抗すべく邁進する。
だがいくらあかりが奮闘しようとも、一度燃え上がったは炎は収まりこそすれ、完全に消えることはなかった。
そして推しの炎上をきっかけに、あかり自身の生活も徐々に変わっていくことに…
…といった感じでアイドルのスキャンダルにより、あかりの生活や精神は大きく揺れ動き、次第に現実と向き合わざるを得ない状況に追い込まれていきます。
以降で主要キャラである二人をご紹介
あかり
物語の主人公で、内向的で感情表現が苦手な高校生。日常の中での生きづらさを抱えながら、学校生活もあまり上手くいっていない。
彼女の心の支えとなっているのはアイドルグループに所属する推しである上野真幸。彼の存在があかりの精神の柱になっているが、彼の不祥事が彼女の心をかき乱す。
上野真幸
あかりの「推し」で、あかりにとっては生きる理由そのもの。やや気難しいところがあり、人とは一定の距離を保つことを公言している。彼が不祥事を起こすことで、あかりの生活や精神状態が劇的に変化していきます。
読んでみた感想
なんだこの貫禄に満ちた文章は…
読み始めて数ページで素直に思った感想です。
宇佐見りん先生は21歳の女性で、主人公のあかりは現代を生きる高校生。作中では「推し」や「インスタライブ」といった現代的な言葉やモチーフが使われています。
にも関わらず、太宰治や三島由紀夫の作品を読んでいるかのような気分になりました。
その理由の一端として、この「推し、燃ゆ」には著者による読者に向けた説明的な文がほぼ存在しないことが挙げられます。
例えばこんな一文があったとしましょう
”私は苛立ちを紛らせたくて、辞めたはずのタバコに火をつけた”
「私」がどうして辞めたタバコに火をつけたのか?
答えは明白で、苛立っているからですね。
ところが本作ではこの「苛立ちを紛らせる」にあたる文が、ほぼ見受けられないんです。
登場人物が、なぜこういう行動をしたのか?なぜこのようなことを言ったのか?といった部分の説明が排除されているということ。
純文学とはそういうものだと言われれば確かにそうですが、ここまで純文学した純文学は昨今では稀です。むしろ昭和の文豪の作品に見られる特徴だと思います。
だからこそ、「推し、燃ゆ」はまるで太宰治の作品のようだと感じるのかもしれません。
勝手な想像ではありますが、宇佐見りん先生は読み手ではなく、主人公である「あかり」に寄り添っているように思えました。
もはや寄り添いすぎで、同化しているんじゃないかと感じたほど。
それくらい主人公の「あかり」という少女は、小説の登場人物であることを忘れてしまうほど、生々しく息づいていたのです。
説明的な要素を排除した文は、むき出しの感情と思考を浮き彫りに。一人の少女の如何しようもない息苦しさや痛み、そして絶望が、なんの加工も装飾も施されず読み手に延焼していきます。
僕自身はガチと呼べるほど、誰かを推したことがありません。なので主人公の生き方は、共感できない部分の方が多かったくらいです。
にも関わらず、あかりの心情が痛いほど伝わり、ページをめくる手が止まりませんでした。
それくらい、熱量を感じる文章だということですね。
共感できないはずの僕でさえこうなのですから、共感できる人ならもっと強烈な一冊となるかもしれません。
そういう意味では、この本に出会う前に、熱烈に推せる何かに出会いたかったと、悔しい気持ちになりました。
読者の感想や評価は?「推し、燃ゆ」の魅力とは
ネットでの評価は以下のような感じです。
推しの言葉を借りて世界を書き換えたり、普通からはぐれてしまった自分を理由づけしないと社会に適応できない主人公の苦悩がありありと伝わった。
何かを推したことがないので、あんまりピンとこなかった
文章が独特で少し読み難い。 脈絡がなく、回りくどく、比喩もあんまりわからなかった。
登場人物の解像度が高い。自身が人間社会に適応していないことを痛い程自覚して、それでもなんとかもがいて、生きてきた主人公にとっての推しはまさに文字通りのアイドル(崇拝の対象)だったんだろう。
私も推しが炎上して表舞台から姿を消したことがある。そのあとの展開も本編と同じ誹謗中傷の嵐って感じだった。だからあかりの気持ちは痛いほどよくわかる
このように主人公の「あかり」に共感できるかどうかが評価の分かれ目なような印象です。
何かを推しているあるいは推したことがある人にとっては、あかりの心境は痛いほど伝わるようですね。また、彼女と同じようにリアルな人間関係を築くのが苦手な人にも響くものがあるようです。
だから逆にあかりに共感できないと、いまひとつピンとこないという評価になりがちなようですね。
また独特な文章スタイルも、好き嫌いが分かれるところみたいです。
全体的には思ったよりも「賛否両論」といったところでした。しかし、それこそ名作文学の証ですよね。
村上春樹然り、村田沙也加然り、好きという人に負けないくらい嫌いとか苦手といった人も多いのが、優れた文学の特徴だと個人的には思います。
「推し、燃ゆ」が扱うテーマとその深層
本作のテーマは、そのタイトルにもあるように「推しという概念の解釈」であると僕は考えました。
「推し」という言葉はおそらく2010年代に流布した言葉で、比較的あたらしい概念であると思います。
それ以前は、「ファン」という言葉で、表されていました。
しかし「ファン」と「推し」は同じ意味の言葉として使われるものの、明確な違いが一つあります。
それは矢印の方向です。
「私は〇〇のファンです」という言葉は、〇〇に対しての属性を自認するニュアンスがあります。
いっぽうで「〇〇は私の推しです」という言葉は、〇〇に「あなたは私の推しである」という属性を対象に付与するニュアンスを感じさせます。
いかがでしょう?ファンは自分に、推しは対象に矢印が向いていることがわかりますね?
この違いこそ、本書が提示する「推しの概念の解釈」を理解するのに必要な部分だと、僕は思います。
そして対象を自分の一部として取り入れる行為が「推す」ということであると、本書は定義していると考えます。
対象に推しという定義を付与するという行為は、例えはよくありませんが野良猫に首輪をつける行為と似ていると思います。
今まで窓の外でたまに見かけるだけだった野良猫が、いつの間にか自分の生活空間に入ってくるようになり、やがて愛着を抱き、ついにはネットで注文した首輪を与えら、自分の生活の一部であることを認めるのが、「推す」ということなのです。
「野良猫をペットにした」とは言っても、「野良猫の飼い主になった」とはあまり言いませんよね?そういうことです。
そして本書の主人公であるあかりを見れば、推しが人生の…いや、彼女にいたっては体の一部であることがまざまざと理解できます。
そう、彼女にとってもはや推しは「体の一部」なんです。←大事なことなんで二回言いました。
ここまで推しという存在に傾倒した人間が、その推しの存在が揺らめくとき、果たしてどうなってしまうのかを、本書では語っています。
推しを体の一部と言えるまで取り込んでしまったあかりという少女の在り方を、ある意味では容赦なく、徹底的に詳細に語ることで、「推しという概念の解釈」を表現しているのだと僕は考えます。
まとめ:こんな人におすすめ
・古き良き名作文学が好き
・何かを痛烈に推したている、あるいは推したことがある
・好きな著名人が炎上したことがある
舞台こそ現代ですが、古き良き生粋の純文学です。だから教科書に載るような、昭和の文豪作品が好きな方には、かなりオススメできます。
個人的には太宰治が好きな方には、たまらないんじゃないかと思いますね。
それとタイトルにもあるように「推し」がテーマなので、強烈に誰かを推している、あるいは推したことがある人は共感ポイントが多いでしょう。