どうも、広く浅いオタクの午巳あくたです。
今回は三島由紀夫の「仮面の告白」について語りたいと思います。
著名な文学賞の名称にもなるほど、日本文学史における偉人の半自称伝的小説とされる本作を徹底解説いたしますので、ぜひ最後までお付き合いください。
あらすじ
三島由紀夫の「仮面の告白」は、主人公である「私」の内面を描いた自伝的な小説です。
幼少期にたまたま見かけた糞尿汲取人の肉体に強く惹かれ、13歳の時に画集で目にしたグイド・レーニ作の「聖セバスチャンの殉教」という絵で精通を迎えました↓。
こうした経緯で「私」は傷ついた男性に劣情をもよおすセクシャリティを自覚していきます。
成長した「私」は、周囲と異なる自らの性的嗜好に苦悩し、男性に強く惹かれる一方で、社会の常識や期待に応えようと女性に恋愛感情を抱こうとするが、やがて偽りの感情であることに気づきます。
特に、親しくなる女性・園子との関係が進むにつれ、自己の内にある「仮面」を意識するようになります。
この「仮面」をかぶった生き方が、主人公の苦悩と孤独を象徴しているのです。「仮面の告白」は、自己との対話や他者との関係を通じて、人間の複雑な内面を探求する文学的な作品と言えるでしょう。
感想と解説:ほんとうに同性愛がテーマなのか?
結論から言うと、この作品は「同性愛」を本筋のテーマとして描いているわけではない、と思います。もちろん同性愛もテーマの一部ではあると思いますが、もっと包括的なものであると僕は考えました。
まずこの作品のタイトルが「仮面の告白」という点について。
主人公はたしかに仮面を被っています。なぜかというと自分の性癖が異常なモノだからです。※この時代においては
ですが果たして彼の仮面はただ単に同性愛を隠すためだけだったのかというと、それは違うと思います。そもそも主人公のセクシャリティーは、単純に同性が好きだという一般的なゲイセクシャルの解釈とは、やや様相が違うと僕は解釈しています。
彼の性愛は投影による自己愛の育みであり、同時に欠落した自尊心の穴を映す鏡でもあったと思うのです。
序盤の幼少期、彼は糞尿汲取人の若者の体をみて「私が彼になりたい」という欲求を抱き、それが性的な興奮を呼び起こすものとなりました。
体そのものというよりは、対象に自分を投影する行為に、性の目覚めを実感したのです。
そして自分を投影する対象は常に「たくましい肉体を持った男性」だったわけです。その理由は、おそらく彼が軟弱だったからでしょう。
祖母から溺愛されて育った主人公は、常に彼女の支配下に置かれ、外へ出て遊ぶことも許されず、男の子が好むような玩具も与えられず、男性的な要素と無縁の生活を送り、体もひ弱でした。
そんな彼だからこそ、逞しい肉体への憧れが自己投影に繋がり、それは性的な刺激となると同時に、自己愛を育む栄養でもあったのだと考察できます。
裕福な家庭に生まれ、祖母に溺愛されていたわけですから、自分は愛されるに値する存在であるという認識は持っていて、でも同時に男らしさを持ち合わせず、さらに倒錯した性的欲求を持っているため自尊心は持てない。
自尊心無く自己愛を成立するためにはどうすればよいか?
その答えが他者に「投影」し「同一化」する夢想で、認知を歪めることだったのです。
しかし思春期を迎えた主人公は、誰もが経験する変化に戸惑うことになります。
学生になった彼は同級生の近江という少年に恋をするわけですが、近江の腋窩に生い茂る豊饒な毛…まあつまり”腋毛”に、劣情を覚えるとともに強烈な嫉妬を感じたのです。
腋毛はまさに「男」の象徴。体があまり男らしく成長していない主人公に無いものだったのです。
こういう嫉妬はわりかし誰もが感じるもの。同性の容姿において、自分に無い部分を目の当たりにして、嫉妬したことがない人間の方が少ないでしょう。
しかし主人公の場合は、ただの嫉妬では収まらない複雑かつ猛々しい感情を呼び起こします。
近江の男の象徴に、いつものように自己投影し性的興奮を覚え、いつものように自己愛を育む餌として味わいつつも、同時に沸き起こった嫉妬という感情が、自分の中の、本来なら自尊心が居座る場所がぽっかりと欠落しているという事実に光を当ててしまったのです。
このような感覚は異性愛では実感しにくいものかもしれません。なぜなら異性に対して、容姿における嫉妬心を呼び起こすことはそうそうないからです。
主人公の倒錯した性愛は、自己愛を潤す豊穣の雨となり、そして自尊心の穴に溜まった雨水が目にしたくない醜い自分を映す鏡になってしまうという、皮肉を内包することになるのでした。
このように仮面の告白という作品は、倒錯した性愛から生じる「自己愛と自尊心の不均衡における皮肉」を色濃く描いていると、僕は感じたのです。
そして小説の中盤以降で主人公は仮面を被ります。「女性を愛せる普通の男である」という仮面です。これもまた自己愛からなるある種の逃避なのでしょう。
つまり本作における仮面とは「自己愛の象徴」であり、なおかつ包括的なテーマだと僕は思いました。
誰もが人に言えない秘密をひとつやふたつ抱えているもの。それを隠すために自分を偽るのも誰もが経験があることでしょう。
でもそもそもなぜ仮面を被るのか?秘密を抱えるなら、単に沈黙すれば良いんじゃないか?
その答えが自己愛と自尊心の不均衡にあるんじゃないかと思います。
多くの場合、秘密とは自尊心を蝕むものです。蝕まれ欠落した自尊心の穴は、自分という存在を醜く映す水面になります。
そこから目をそらすために、自己愛を満たす雨を浴びるために、人は仮面を被るのかもしれません。
それは他者から見た自分を欺くためであると同時に、水面に映る自分の素顔を隠すためなのかもしれません。
自伝的要素:三島由紀夫の経歴から読み解く
前述したように「仮面の告白」は著者である三島由紀夫の半自称伝的な小説であるとされています。
主人公の「私」は三島由紀夫自身がモデルであり、「私」の歩む人生は三島由紀夫の人生を投影していると考えられているのです。
作中のどこまでがフィクションでどこまでが事実なのかは、流石にご本人でないとわからないでしょうが、おそらくかなりの割合で事実が含まれていると考察できます。それこそ違うのは登場人物の名前くらいで、起こった出来事はすべて事実である可能性もあるほど。
たとえば主人公の生家について。主人公の私は裕福な家庭に生まれ、6人の女中がいたと明記されているのでが、三島由紀夫自身も名家の生まれで家には6人の女中がいたそうなのです。
また主人公の祖父が「植民地の長官」を務めていたという記述があります。
そして三島由紀夫の祖父である定太郎氏も、当時日本の植民地だった樺太の長官だった経歴があるそうです。
さらに祖母に溺愛されその支配下に置かれ、色白で軟弱な少年に育ったという幼少期も、そっくりそのまま三島由紀夫の幼少期と重なるのです。
また「仮面の告白」を起筆した1948年(昭和23年)のからおよそ3年ほど前、三島は、かつての恋人である三谷邦子が銀行員の永井邦夫と婚約したことを知らされます。
この件もまた小説内で描かれており、主人公は園子という女性といっとき恋仲になり、のちに彼女が別の男と結婚したという知らせを受けるのです。
そして三島由紀夫は結婚した邦子と偶然道で再会したことをきいかけに、自伝小説を書く決意をしたとのこと。その自伝小説とは言うまでもなく「仮面の告白」でしょうね。
まとめ:こんな人におすすめ
本書はこんな人におすすめです。
- 刺激の強いテーマや描写を好む
- 繊細でありながらエキセントリックな文章を堪能したい
- 三島由紀夫という小説家のパーソナルな部分を知りたい
内容といいテーマといい、文章表現といい、全体的にかなり刺激的です。人によっては生理的に受け付けない描写もあるかもしれません。
しかしその文章の卓越さは圧巻で、鬼気迫る描写力は意味は完全に理解できなくても、間違いなく一読の価値はあります。