どうも、広く浅いオタクの午巳あくたです。
今回は2008年に公開された映画「グラン・トリノ」について語りたいと思います。
ハリウッドきっての巨匠であるクリント・イーストウッドが主演兼監督をつとめ、彼の俳優業引退作ともなった本作のあらすじや感想、もういちど観たくなる考察をご紹介いたしますのでぜひ最後までお付き合いください。
あらすじ
妻に先立たれ、デトロイトで一人での隠居生活を余儀なくされたウォルト・コワルスキー。
朝鮮戦争を生き残り、フォードの自動車組立工場で50年勤めあげ、息子二人も立派に育て上げたが、とうの息子たちと孫たちからは嫌厭されていた。
それは「親父はいまだに50年代を生きている」と揶揄されるほど、偏屈で頑固な性格故だった。
日本車を嫌悪し、女性差別、人種差別的な発言も目立つウォルトは周囲から煙たがられ、また彼自身も戦争時代の仲間以外とは関わりを持とうとしていなかったのだ。
彼が愛するのは飼い犬のデイジーと、愛車のフォード・トリノ、通称「グラン・トリノ」だけだった。
ところがある夜の事、ガレージから物音がしたためショットガンを手にして様子を見に行ったウォルト。
そこには愛車のグラン・トリノを盗もうとする少年の姿があった。しかも、彼は隣に住むモン族一家の息子でもあったのだ。
ショットガンを突き付け、少年を追い出すウォルト。
しかしこの出会いが、ウォルト・コワルスキーの廃れた人生を大きく変えることに…
グラン・トリノとは?衝撃的な値段で取引されるフォードの名車
映画のタイトルでもありウォルトの愛車でもあるグラン・トリノは、フォードの「トリノ」という車種シリーズのひとつ。1972年から1976年に生産された第三世代のトリノをそう呼ぶみたいですね。
フォードがアメリカを代表する老舗メーカーであり、グラントリノは今なお愛される名車です。身内意識と愛国心が強いロートルであるウォルトを象徴するような車ですね。
本作以外でも「ワイルド・スピード MAX」や「ダーティー・ハリー3」などの映画にも登場しています。
さてそんな名車の現代の価格は、アメリカの市場においては平均23,475ドル、日本円換算で350万円くらいでした。
50年前に世に出てきた中古車と考えればお高いですが、名作映画の主役を張るほどのクラッシックカーと考えれば意外とお得かもですね。
モン族について解説
ウォルトの隣人としてモン族の一家が登場しますが、あまり日本には馴染みのない民族なのでここで少し紹介しておきます。
モンというのは「自由な人」という意味があり、かつては移動民族としてアジア圏を中心として各地に点在していたとのこと。
シャーマニズム信仰が文化として根付いており、クロスステッチを使った独特な民族衣装で有名です。
そしてアメリカとも深い関わりがあります。
モン族はベトナム戦争の際、アメリカ側についた民族です。敵対するラオスの補給路の破壊工作に助力したとされています。
しかしご存じのとおりベトナム戦争はアメリカ側の敗北。アメリカに見捨てられ現地に取り残されたモン族は、のちに設立したラオス政権により迫害され、女子供問わず虐殺の憂き目にあうのです。
そんな経緯もあり、モン族はアメリカをはじめとする欧米諸国への亡命を余儀なくされたのです。
ウォルトの隣人であるロー家は、そのような経緯でアメリカに住んでいるのでした。ベトナム戦争は1975年のことなので、あの一家においては祖母が経験者だと思われます。
彼女はやたらとウォルトを毛嫌いしていましたが、もしかしたら戦争時代の遺恨があってのことかもしれませんね。
感想※ネタバレ無し
「隔たり」の表現が非常に印象的でした。
主人公のウォルトは、周囲との隔たりが根深いキャラクターです。
映画が始まって間もなく、彼が家族と上手くいっていないのがすぐにわかります。それはひとえにジェネレーションギャップによるもの。
軍出身のウォルトは愛国心が強く、アメリカ産にこだわるタイプです。しかし息子の仕事は日本車のセールス。ウォルトはそのことを内心面白く思っていませんでした。
でも軍に身を置いたこともなく、戦争を経験していない息子側の立場からすれば、父親の考え方に同意できないのも当然のこと。
息子の妻や孫とも、やはりジェネレーションによる価値観の隔たりが災いし、うまく関係を築けていません。
ウォルトは家族の立場から見れば、紛れもなく「老害」なのです。
家族のウォルトに対する冷淡さに観ている僕はだいぶ憤りを覚えましたが、ウォルトのような親戚がもし自分の身近いたとしたら、親しく付き合っていこうと思える自信はありません。
しかし、このような隔たりは言ってしまえば王道のパターンです。印象深いのはウォルトと隣人であるロー家との隔たり。
両者の間にあるのは言語の違いや文化のギャップ。従来であれば、この隔たりは関係性構築における「困難」に繋がるものですが、グラン・トリノという映画においてはむしろ逆です。
言語や文化の隔たりが功を奏して、ウォルトはロー家と心の距離を縮めるのです。
両者ともお互いをまったく別世界の存在として認識していましたが、だからこそ隣人間での異文化交流が心の隔たりを縮めるきっかけになっていたのが、とても印象的でした。
例えばですが、普段は初対面の相手にボディタッチなんかしないのに、海外の人と挨拶する機会があるとためらいなく握手に応じたり肩を叩いてみたりして、自分がやけにフランクな人間になることありません?
この映画では別世界の者同士だからこそ生まれる「尊重」という概念が、ウォルトという偏屈の塊のような思想を解きほぐすきっかけとなるでした。
グラン・トリノはこのような文化や言語の隔たりが絆を育むという過程を、丁寧に描いているのです。
ラストの意味を考察:戦争に生きた男の出した答え
※この章では重大なネタバレを含みます。未視聴の方は飛ばしてください
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この映画はまったく新しいアプローチで描いた、「反戦」というテーマが内在していると思われます。
主人公のウォルトは人種差別的、男女差別的な言動が目立ち、口調も粗野で品がありません。
その理由はただ「老害」だからで片づけられるものじゃないでしょう。彼の思想の背景には、軍に所属し戦地で殺し合いをした経験があるのです。
軍は現代においても男中心の組織で、ウォルトの時代であればなおその傾向が強かったでしょう。そういった環境では往々にして「男らしさ」が尊ばれる傾向にあります。
ウォルトが男らしさにこだわりるあまり、男女差別的な言葉が出てきてしまうのはそのためです。
人種差別的な発言が目立つのも、戦争というある意味では「人種差別の極致」のような環境にいたためでしょう。
ウォルトが戦った朝鮮戦争で、彼は朝鮮人を相手にしていました。
ごく普通の善人がためらいなく人を殺すにはどうすればよいのでしょう?それは「敵国の人間は悪魔」だという究極の差別思考に至るしかないのです。
日本も第二次世界大戦当時は、アメリカ人に対して過剰にヘイトを煽るようなプロモーションをしていました。
そんな世界で生きていたウォルトが、人種というものを強く意識し、保守的な思想を持ってしまうのも致し方ない部分があると思います。
また生きるか死ぬかの戦地において、品性や礼節など保っていられないことは想像に難くありません。粗野で乱暴な口調で鼓舞しなければ、まともな精神を保つこともできないでしょう。
よって軍隊という組織は、仲間同士で罵り合ったり、下品なスラングを日常的に使うなどの卑語文化が形成されています。
軍を舞台にした他作品でも、軍人たちが品のないコミュニケーションをとっているシーンは当たり前のように描かれますよね。ウォルトの口調もその名残だと思います。
つまりウォルトというキャラクターは、戦争が終わった後もその世界に囚われ続けているという造形をしているのです。
彼の保守的な思想や言動はもとより、彼が日常的に親しくしているのは軍の仲間たちばかりで、戦争時代の写真を大事にとっていたり、ことあるごとに朝鮮戦争時代の話を持ち出したりしているのがその証拠。
その理由は物語の後半に語られるウォルトの戦争時代のトラウマによるものかと思われます。
また彼の暮らす地域も、戦争の縮図のような環境でした。
物語序盤では、黒人たちのギャングとモン族を中心とするアジア人のギャングとで、縄張り争いをしている状態だったのが示唆されていました。
いわゆる領土争いという最もメジャーな戦争の縮図として、ギャング間の争いを描いていたのだと思われます。
そんな中、モン族のギャングがウォルトの家の庭に足を踏み入れたことがきっかけで、物語が動きます。
そう、ギャングたちはウォルトの領土を侵犯したのです。彼は銃を持ち出して、「防衛」を試みたのでした。
それがきっかけで、親しくなったウォルトとロー家は、互いの家を行き来するほど気安い間柄になります。つまりロー家がウォルトの領土の一部となったのですね。
そして、ウォルトと絆を育んでいたタオが、あるときギャングたちに乱暴される事件が起きます。
ウォルトは迷うことなく、銃を持ち出し、彼らのアジトに襲撃して暴力で脅しました。
このときの彼に辟易した視聴者も多いでしょう。普通の人から見たら、ウォルトの行動は直情的で浅薄で、あまりに愚かです。
ですが彼の価値観、つまり「戦争の価値観」においては絶対に必要なことだったのです。
戦争における「自衛」という概念は、独特なものです。
例えば自国が他国の戦闘機によって攻撃されたとしましょう。そうなれば当然、自国も武力をもって迎撃するわけで、それは当然ながら自衛行為にあたります。
ではそのあと、自国がなにもしなければどうなるか?攻めてきた国はもちろん、その他の敵対国からしても、気軽にちょっかいをかけても大丈夫な国と認識されてしまいます。そうなれば自国の被侵攻リスクは飛躍的に高まることになるでしょう。
だからこそ攻撃された側は今度は自分から攻め入って報復することで、そのリスクを回避する必要があり、ひいては自国を守る行為と解釈されます。それもまた「自衛」であるというのが、戦争の価値観なのです。
例えば9.11のアメリカ同時多発テロの後にアメリカはアフガニスタンに侵攻しましたが、あれは「自衛のための報復」という解釈で行われた攻撃です。
つまりウォルトがギャングの家に乗り込んだのは「自衛のための報復」なのです。
ウォルトはタオを息子のように感じていました。だからこそタオが受けた暴力を、自国への侵攻と同義だと捉えたのでしょう。そして自分の国を守るために報復したのです。
実際にギャングたちを野放しにしておけば、タオが不幸になるのは目に見えていたわけですしね。
しかし結果はどうなったか、ロー家と自宅はマシンガンで銃撃され、そしてウォルトと最初に親しくなったスーという少女が、激しい暴行を受けるに至ったのです。
まぎれもなくウォルトの報復がもたらした結果です。彼は自分が何十年も正しいと信じてきた価値観を、根底から揺るがされます。
戦争においては必要だった報復が、かえって取り返しのつかない事態を招いたのです。
そしてウォルトが下した決断とはなんだったか?
丸腰で敵地に乗り込むという無謀ともいえる行動でした。そしてハチの巣にされて、命を絶たれたのです。
もっとも何人もの人間がウォルトを銃で狙っていたあのシチュエーションでは、仮に武器を持ってきていても結果は変わらなかったでしょう。
しかし死という結果は変わらずとも、ギャング側の立場からすれば天と地ほどの違いがあります。
銃を持った人間を撃ち殺すのと丸腰の人間を撃ち殺すのとでは、司法における罪の重さがまるで違うのですから。
ウォルトは丸腰で乗り込み、あえて紛らわしい動作でギャングたちを刺激し、自分を殺させることでタオやスーの人生を守ったのです。
ギャングたちに重い刑が処されることは間違いなく、ウォルトは彼らをスーとタオから遠ざけることに成功したのです。非暴力によって守ったのです。
この非暴力によって暴力に勝利するという構図は、暴力をもって暴力を打倒せんとする「報復」の否定。
ウォルトのキャラ造形といい、彼の住む町の環境と言い、彼の犯す過ちといい、そして結末といい、この映画は戦争を示唆するシーンが多く、そして報復戦争というものに対するアンチテーゼを感じぜざるを得ませんでした。
ちなみにですが、主演兼監督のクリント・イーストウッドは、アフガンやイラクの侵攻を批判しており、他国に攻め入る外征戦争に対して否定的な立場であることで知られています。
まとめ:こんな人におすすめ
この映画はこんな人におすすめです。
・ほっこりだけではないヒューマンストーリーが観たい
・偏屈な主人公に魅力を感じる
・クラッシックなアメ車に憧れがある
ほっこりあり、皮肉あり、衝撃ありと色々な感情が刺激される重厚なヒューマンドラマです。
またタイトルにもなっているグラン・トリノは本当にカッコいい車なので、アメ車好きの方にもおすすめ。